「住みたい街」の正体をあばく!『首都圏「街」格差』【連載】第2話「安定の人気の理由は“改名”にあった!? 自由が丘」

公開日:2017/4/17

 毎年注目される、不動産情報サイトや雑誌の特集で発表される「住みたい街ランキング」。そこに登場する「街」は本当に住み良いところなのか? 人気はずっと続くのか? これからランクアップする「穴場」はどこか? そんな「住みたい街」の正体をあばく文庫本『首都圏「街」格差』が好評発売中! いま首都圏で話題となっている様々な「街」をテーマ別に選定し、現地での観測調査と統計資料を使いながら実態をあぶり出していきます。

 

ランキング上位を維持する自由が丘

 時代によって「住みたい街ランキング」は変動していく。それでも、かつてランキング上位の常連であった下北沢の人気が急落してしまったのとは対照的に、安定した人気を保っている街がある。それが自由が丘だ。東急東横線と東急大井町線が交差する交通の要衝で、駅周辺はこの沿線でも有数の繁華街。しかし、駅前から10分も歩けば喧騒はすぐに消え、不動産会社の広告でよく目にする「閑静な住宅地」といった文言がピタリとあてはまる感じだ。

 

街のイメージをつくった〈改名〉

 昭和のはじめ、自由が丘近辺の地名は「衾(ふすま)」といった。農家と田畑が点在する小集落だったが、昭和2年(1927)に東横線が開通すると街の人口は急増する。ちなみに、この時に開業された新駅は近隣の名刹からとって「九品仏前駅」と命名されている。

 この時期、東京西部の地域には、高級官僚や高級軍人、教育者などのインテリ層が多く移り住んできた。そんな移住者たちのなかに、手塚岸衛(きしえ)という人がいた。彼は自由な教育を提唱する教育者で、ヨーロッパへの留学経験があり、九品仏前駅付近の雑木林に幼稚園・小学校・旧制中学校からなる「自由ヶ丘学園」を開校した。手塚には芸術家や文化人たちを呼び集めて、芸術文化の理想郷を創設するという壮大な夢があった。

 手塚は、友人や知人へ送る手紙に自分の住所を必ず「自由ヶ丘」と書いていたという。さらに、インテリたちの口から発せられる「自由ヶ丘」という言葉の響きに影響されたのか、昔から「衾」に住む村人たちまでも、「自由ヶ丘」の地名を使うようになっていった。

 そうして、昭和7年(1932)には正式に町名が「自由ヶ丘」に変更された(昭和40年〈1965〉に「自由ヶ丘」から「自由が丘」に変更)。また駅名は、町名よりも先の昭和4年(1929)に「九品仏前駅」から「自由ヶ丘駅」に名称変更している。

 この街の地名が「衾」のままで、駅名も「九品仏前駅」から変更されていなければ……。自由が丘の街の状況やイメージは、もっと違ったものになっていたかもしれない。

 

本物志向の固定ファンが強み

 「自由が丘」の名で、この地の先進的なイメージが広がることで、インテリ層が好んで住む街ができあがっていく。住人には留学や海外赴任の経験者が多く、そんな人々が住む街だけに、小じゃれたレストランや喫茶店が繁盛し、本格的なフランス菓子を食べさせてくれるカフェなどができる。ちなみに、マロンクリームを山形に盛ったモンブラン・ケーキ発祥の店とされる「モンブラン」や、東京銘菓「ナボナ」の「亀屋万年堂」も自由が丘の有名老舗店である。

 スイーツに限らず、インテリや文化人たちが好む本物志向のレストランや、彼らの趣味にあった上質な品物を扱う商店が自由が丘にはある。そんな過去から受け継がれている本物志向の“ブランド”イメージが憧れを集め、自由が丘を「住みたい街ランキング」の上位に押し上げつづけているのだろう。

〈プロフィール〉
首都圏「街」格差研究会●首都圏で「住みたい街」として人気の各街の実態を、フィールドワークや収集したデータをもとにして研究している集団。
青山誠●大阪芸術大学卒業。ウェブサイト「BizAiA!」で『カフェから見るアジア』を連載中。著書に『江戸三〇〇藩 城下町をゆく』(双葉新書)などがある。