子育てに模範解答はない!! 日々の暮らしの中で学ぶ、子どもの心の病気や障害、そして子どもとのかかわり方

出産・子育て

更新日:2018/10/30

『子どものための精神医学』(滝川一廣/医学書院)

 精神疾患や障害を個性と捉える考え方があるが、私は賛同できない。20年間ほど毎年のように小中高生たちをキャンプに連れていく活動に携わっていた私は、そこで障害のある子どもたちに接する機会もあった。中でも印象的だったのは、当時は「知恵遅れ」と云われていた子どもがいて、その子は食事の準備をする時には呼べばすぐ来るのに、食べ終わって皆で片付けをしようとすると、途端に話しかけても「分からないフリ」をした。つまりは、ちゃんと状況を把握できて好き嫌いを判断しているのだ。障害というものは特定の機能不全であって、それを個性としてしまっては治療の機会を逃しかねないと警鐘を鳴らす精神科医もいることからすれば、その危険性を分かってもらえるだろうか。

 今回取り上げる『子どものための精神医学』(滝川一廣/医学書院)では、昨今の「障害」を「障がい」や「障碍」と表記にすることについて、「害」は「損なう」という意味の他に「妨げる」の意味があり、例えば「肝障害」は「肝臓のはたらきが妨げられている」の意なのだから、「当事者をおとしめたり傷つける表現ではない」としている。

 精神医学の分野では、こういった解釈の仕方や字義に囚われていると本質を見失いかねない。本書に「小児性愛」という用語が出てきたときにはギョッとしたが、これは性倒錯の一つである「pedophilia(ペドフィリア)」とは別で、フロイトが提唱した発達論の概念だそうだ。生存には不必要であるはずの「抱きしめたり頬ずりをしたり」などの行為を通して、親は子を慈しみ、子は安心感を得る双方向の希求こそが人間の発達に必要であり、それを成人期の性愛と区別するため、フロイトは「小児性愛」と呼んだのだという。

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 その発達についてだが、「発達障害」という言葉は比較的新しく、そして短命であったようだ。日本では定着したものの、1987年に米国精神医学界の診断マニュアルに初めて登場しながら、1994年に改定されたときには早くも消えている。しかし著者は、必要なのは診断名よりも「いま6歳の太郎くんは認識の発達ではほぼ4歳あたり、関係の発達ではほぼ2歳あたりを歩んでいる子ではないか」というように、遅れたところを「支え伸ばすことに留意した子育て」が必要だと述べている。

 そして本書は、障害のある子どもに限らず一般的な成長における精神活動についても解説しており、そればかりか親や支援する人の精神状態についても論じている。これは、本書が「子どもの精神医学」ではなく「子どものための精神医学」であるからだ。子育ての歴史の項目では、昔は地域社会で子どもを育てていた理由を、生活環境や医療が未発達だったため子どもが幼くして亡くなるだけでなく、大人も病や飢饉に脅かされ、親を失う子どもが多かったからだとしている。それが、現代においては社会制度の充実と医療の発達により、「子育ては親の私的な営み」となって、これが「教育のストレス増加」へとつながり、そこから「大きな困難や失調が生じる」と指摘している。

 本書は、いわゆるQ&A形式のハウツー本とは違い、手軽な答えは載っていない。あくまで精神医学の基本的な考え方や子どもとの基本的なかかわりの姿勢を示し、その土台を理解することに重点を置いている。それを難しいと感じるかもしれないが、マニュアルに頼っていると載っていない事例に対応しきれないのに対して、基本を押さえれば臨機応変に応用することが可能となるはずだ。

 私は本書を読んで、以前に某大学の教育学部の教授のもとを訪ねた時に、「親は、子どもに勉強しなさいと言うくせに、自分は勉強しないんですよ」と言っていたのを思い出した。私も一児の親として、ついハウツー本に飛びついてしまうことを反省する次第である。

文=清水銀嶺