「大阪府が奈良県を吸収した時代がある?」「家と裏庭の住所が違う?」――知れば知るほど“おかしい”県境の不思議

社会

公開日:2017/5/1

『奇妙な県境62の不思議』(浅井建爾/実業之日本社)

 県境(けんざかい)は、面白い。『奇妙な県境62の不思議』(浅井建爾/実業之日本社)は、普段それほど意識しない県境に関する「謎」「歴史」「悲喜こもごも」をまとめた「うちの地元にそんな過去が!?」と驚くこと間違いなしの一冊だ。

 一般的に県境は、平野部では大きな河川が境になっている。山間地域では山の稜線――つまり、降った雨がどちら側に流れていくのか、その境目である分水界(異なる水系の境界線)が県境となる場合が多いそうだ。

 だが、県境の中には、その原則から外れ、不自然に曲がっていたり、複雑に入り組んでいたり、はたまた住宅地の中を通っていたりと「どうしてそうなったの?」と奇妙に感じる境も存在する。

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 また、現在では「47都道府県」が当たり前となっているが、江戸時代が終焉を迎えた直後からずっと同じだったわけではない。3府41県」の時もあったし、「261県」という、今では考えられないほど細分化されていた期間も存在した。また、過去の東京都は限りなく小さく、西東京市が埼玉県だったこともあるとか。

 様々な変遷を得て、現在の「47都道府県」に治まった日本(実際はまだ県境未定地があるらしいが)。その歴史を少しだけご紹介しよう。

★奈良県は大阪府に乗っ取られました――。奈良県が地図から消えた日。

 奈良県が誕生したのは明治時代が始まる1868年。その後「奈良府」に変更になり、再び「奈良県」に戻るという錯綜の末、なんと1876年には隣の「堺県」に併合されてしまう。「奈良県だけでは財政基盤が脆弱だから」というのが理由だったとか。

 その後「堺県」も「大阪府」に併合されてしまい、奈良県も大阪府の一部となる。もちろん「元奈良県」の住民たちは反対し、再三上京して奈良県の設置を国に訴える「分県運動」を行ったのだが、政府の承認が下りることはなかった。

 理由は、大和(奈良県の旧国名)に地元出身の有力な政治家がいなかったこと。また幕末に朝廷側につくか、幕府側につくか曖昧な態度だったのも原因だと言われている。

 奈良県が大阪府からの「独立」を認められたのは1887年のこと。「堺県時代」から数えると、実に11年もの間、奈良県は日本地図から姿を消していたのだ。

 もしも独立が承認されないまま現在に到っていたら、奈良県の大スター明石家さんまも、大阪府の芸人だったかもしれない(どっちでもいいような気もする……)。

★どうしてそこに県境が? 住居は福井県で、裏庭は石川県。

 県境を跨いで連なっている市街地は、都市部ではそれほど珍しい光景ではないそうだ。だが、地方の小さな町の市街地の中に、しかも県境を挟み、「県名」は異なっているのに「隣合わせで地名が同じ」という場所は、中々珍しいという。

 福井県と石川県の県境に、それがある。

 浄土真宗の拠点として古くから栄えていた「吉崎山」。現在でも本願寺吉崎別院、吉崎寺、吉崎御坊跡など多くの史跡が遺っている北陸有数の観光名所なのだが、この吉崎山がたまたま越前(福井)と加賀(石川)の国境近くに位置していたため、寺内町が国境を跨いで発展してきたという歴史がある。

 そのため現在でも、福井県側では「あわら市吉崎」。石川県側では「加賀市吉崎町」と、行政管理上は区分されているが、実質的には県境を挟んでいる「ひとつの町」だという。よって、この寺内町に住んでいる人の中には家の建物は福井県だが、裏庭は石川県という奇妙な家庭も存在するとか。

 県境は、行政がスパッと簡単に線を引いたわけではなく、地元民のあらゆる訴えを受け、財政基盤や面積などのバランスを考慮し、試行錯誤を重ねた結果に出来上がったものなのだ。

 県境の歴史をひもといていくと、地元の意外な「建国秘話」を知ることができるかも? 

文=雨野裾