“いい加減な”な人間が、“いい加減な”人工知能にどう向き合うのか?『エクサスケールの少女』【書評】

文芸・カルチャー

2017/5/3

夕暮れが近づくオフィス街の喫茶店で、この書評をしたためています。西日に照らされた新緑が、刻一刻と色を変えていきます。

ある人はそれを緑(みどり)というでしょう。またある人は青(あお)というかもしれません。同じものを同じような光の中で見ているにも関わらず、私たちは時折、違う言葉を発します。

認知科学の研究によれば、視神経に異常がない限り、私たちは同じものを見て、それをほぼ同じ(極めて近しい)色と認識するようです。一方、いにしえの日本では、言葉の上では緑と青の区別はありませんでした。だからこそ、緑色の釉薬で彩られた陶器も、「青磁」と呼んだのでしょう。

私たち人間が世界と対峙する時、仮にそれを万人が共通する刺激として受容したとしても、その認識はもちろん、それによって紡ぎ出される言葉は、人それぞれ揺れ動いています。そしてそれは、他者との間だけでなく、自分自身の中でも絶えず変化しています。

同じ場所で1年前に見た新緑と、いま私が見ている新緑は、物質としてはほとんど同じはずなのに、私にとってはまったく違う。それは、1年前といまの私の間に、様々な時間の流れがあり、1年前といまの私は、異なる存在だからです。

そんな移ろう私たちですが、一方で自分以外の誰かと「共感する」ことができます。親子、友達、恋人同士で、あるいは尊敬する誰かを囲んだ群衆で、私たちは心を一つにしたような気持ちになる。

人間とは斯くもいい加減なもの、とも言えます。その通りかもしれません。特に、人間が面倒になって放り出してしまう厄介な仕事を愚直にこなす、勤勉な人工知能やロボットを目の当たりにすると、人間の適当さに失笑してしまうほどです。

しかしこのいい加減さとその相互作用によって、私たちの社会は出来上がっている。そして私たちはそこに、意味や価値の体系を見出しながら、生きている。

なにしろ文字を見てください。いい加減とは「良い加減」ですし、適当とは「当たり適う」わけです。少なくとも日本人は、そこに善なるものを見出しているようです。

では、適当でいい加減な人工知能は、今後生まれるのでしょうか。それは「私たちがそれを望むのか」次第だと思います。逆に言えば、適当でいい加減な人工知能を、私たちが価値あるものとして受け入れるのか、ということです。

『エクサスケールの少女』では、その答えは出されていません。むしろ強く問いを突きつけられているとも言える。人間と物理的に接続し、人間のコピーでなければ、人工知能は価値体系を持たないのか。そして人間にとって善なる存在となりえないのか。

それは、人工知能の開発者だけに向けられているわけではありません。むしろ、それと対峙する利用者の側こそ、「どうしたいのか?」と問われているように感じます。

その答えを見つけた時、私たちにとっての「人工知能の世紀」が、本当に始まるのかもしれません。本書を読んで、私はいま、それを認識した気分になっています。

-株式会社 企 代表取締役/慶應大学特任准教授 クロサカタツヤ-

 

〈プロフィール〉
クロサカタツヤ●株式会社 企 代表取締役 慶応大学特任准教授。慶応大学大学院修了。情報通信分野のコンサルティングを手がけるほか、総務省「AIネットワーク社会推進会議」構成員等。