村上春樹さんは2時間のトークイベントで何を語ったのか?【WEBメディア単独取材ロングver.】

文芸・カルチャー

更新日:2020/4/20

 4月27日、新宿サザンシアターにて村上春樹さん13年ぶりとなるトークイベントが開催された。長編新作『騎士団長殺し』の発売から約2ケ月が経ち、村上さんはどんな面持ちで何を語るのか。460人の定員に対し応募倍率15倍という競争率の中、幸運にもチケットを手にした春樹ファンたちが会場に集まった。

 19時、いよいよ村上さんの登場だ。洒落たピンクのパンツにTシャツ、その上にシャツを羽織ったラフなスタイルでその姿を現した。会場は待っていましたと言わんばかりの拍手と高揚した空気に包まれた。

「こんばんは、村上春樹です。龍じゃないほうの村上です」

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 という村上さんの第一声から、温かな雰囲気の中、トークイベントは始まった。

“世界の春樹”ともなると、講演の依頼も多い。だが、「文章を書くことを生業にしているので人前には出ない」というスタンスを貫く村上さんは、「最近は人間が丸くなったのか、たまにはこういうことをする」と心境をもらした。

 このイベントは、70余点の訳書をまとめた『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事』の出版もと、中央公論新社からの依頼に村上さんが「おもしろいね、やろうかとつい明るく答えてしまった」ことで開催が決定。「小説について話すのは気恥ずかしいけど、翻訳は他人が書いたものだからわりに気楽」という村上さん。この日は、小説家・村上春樹ではなく、翻訳家・村上春樹として「翻訳について」を語り、自ら手掛けた訳書から厳選した「翻訳作品朗読」、翻訳家・柴田元幸さんを迎えての「二人の翻訳講座」に「翻訳講義」という4部構成で2時間たっぷり行われた。

iPodは5台所有。“マメ”な村上さん

 イベント開始前、会場内に流れていた爽やかなBGMは、村上さんのランニング用iPodをシャッフルしたものだった。なんとも嬉しい演出である。「リズムのいい走りやすい音楽」を聴きながらランニングするという村上さんが所有するiPodはなんと全部で5台。2台はランニング用、1台は自宅(神奈川)と仕事場(都内)を行き来する際のドライブ用、1台はJAZZ専用、1台はクラシックが大半の飛行機用だそう。

「全部手持ちのCDから(iPodに)入れているんだけど、まあよくそんな暇があったなあと我ながら感心してしまいます。すごくマメなんです」と話した。

 運転中は、音楽に気持ちがのせられついついスピードを出してしまうそうで、「血も涙もないような人たち」に捕まることも。交通違反の点数がたまって、“すごくつまらない講習”を受けたという村上さん。その日の午後には社会奉仕があり、新横浜駅付近の交差点で旗を持って立っていたというエピソードに会場中がどよめいた。

 さらに交通違反の話は続く――。警察官からの「ご職業は?」という尋問に「自由業です」と答えたところ「あ、作家さんね」と見抜かれたそうだ。代々木公園付近で若い女性警官に止められ、ふたたび職業を聞かれた際、今度は「想像してみれば?」と返すと「例えばレストラン経営とか…」と言われたので「それでいいんじゃない?」と答えたという。小説家になる前は飲食店を経営していたのでカンが鋭いと思ったという冗談まじりのエピソードに会場に笑いが起こった。

翻訳は仕事ではなく趣味。ボーリングみたいなもの

 本題の「翻訳」について。村上さんは、これまで翻訳した書籍を書棚からひっぱりだして、積み上げてみたら自分でも結構驚いてしまったそうだが、これほど数多の作品を翻訳していることに対し「ボク自身も理由はよくわからない」そうで「お金のためではないというのはわりに確かでつい翻訳をしてしまう。趣味の領域といっていい」と村上さんは話した。また、それは「ボーリング場に足が向いてしまってボーリングの話をいくらでも話せるのと同じ」だという。

 翻訳を専門に勉強したわけでも大学で英語を専攻したわけでもない。村上さんが学生の頃は、大学が封鎖されていた時代。新宿の街に出て行くとやたら面白いことがあって、あまり勉強しなかったそうだが、高校の時から翻訳を読む習慣はあったそう。

 やたらたくさん読んでいるうちに翻訳のスキルが身につき、それは「系統的というよりは自己流」。自分の身の丈にあったスタイルをこしらえといて時間をかけて調整したり磨きあげたりして「少しずつ完成形に近づけていく」作業をしてきたそうだ。

 村上さんが「すぐれたインストラクター」と敬する柴田元幸さんから35年という翻訳人生で一番学んだことは「正確さ」。原文をできるだけ正確に日本語にうつしかえ原文のトーンを崩さないようにするのが翻訳だという。そのためには、テキストをとことん細かく読み込むことが必要で、そんな「当たり前のことが一番むずかしい」と漏らした。

「小説は好きなようにやるけど翻訳のときは自分のエゴをできるだけ殺して与えられた制約の中で自分を謙虚にコンパクトに動かしていきたい。この作業は小説にとてもよい影響を与えている」と話し、自分の中にある流れを自由気ままに奔放に出していく「小説モード」とよそからあたえられた流れに自分を忠実にあてはめていく「翻訳モード」という相反する作業を交互に「35年心地よいリズムでやってきた」ことで「精神の血行がよくなっている」という村上さん。翻訳はまた、一流作家の文章を検証したり向き合ったりする「究極の熟読」で、1行1行横に書かれたものを縦に立て直していく、作家にとって貴重な勉強になると話した。

翻訳は“外に開かれた窓”。村上さんが教えてくれた文章テクより大事なこと

 若い頃から村上さんは『グレート・ギャツビー』が大好き。人生の節々で、ことあるごとに読み返してきたという作品でさえ、翻訳してはじめて発見できたことが思いのほか多くて驚いたという。どれだけ丁寧に読んでいるつもりでも読み逃すことは結構ある。そして、翻訳を通して彼らから学んできたことは「文章テクニック」よりも大きな意味をもつことがら。それは「世界をみる、世界を切り取る彼らのいきた視線」から “文学的錬金術”を得たことだという。彼からか学ぶべきことはまだまだたくさんあると話した。

続けて、村上さんの真髄ともいえる話を聞くことがきた。

「モノをつくる人間にとって一番恐いのは井の中の蛙のみたいに狭い場所で、固定されたシステムの中で妙に落ち着いてしまうこと。もっと目を外に向けていくべきだし、もっと広い場所に自分をおかなければいけない。そういう点で“翻訳は外に開かれた窓”」なのだと。

これから読みたい、「翻訳朗読」に選んだ作品リスト

川上未映子さんも朗読!

『この国で~』は邦訳未刊『Later the Same Day』に収録

「翻訳作品朗読」の最後はスペシャルゲストに芥川賞作家・川上未映子さんを迎え、『この国で、しかし別の言語で私の祖母はみんながすすめる男たちと結婚することを拒否する』(グレース・ペイリー)が朗読された。4月27日は、『みみずくは黄昏に飛びたつ』(新潮社)の発売日でもあった。本作は、川上未映子さんが村上さんに『騎士団長殺し』誕生秘話から日常まで、村上さんが「こんなインタビューうけたの初めて」とこぼすほど“すさまじいインタビュー集”だという。村上さんは、川上さんを「すごくしつこいインタビュアーで答えを引き出すまで絶対諦めないという人」と表した。

 2人のトークは「言語」をテーマに進んだ。関西出身同士のふたり。これまでに読んできた小説は標準語なので、関西弁で書くことのほうがちょっと不自然という川上さんだが、芥川賞受賞作『乳と卵』は関西弁で綴られている。村上さんでいえば「イエスタデイ」(『女のいない男たち』収録)がそうだ。

 標準語を後天的な言語としてとらえる村上さんは「言語がかわると自分の人生がすっと切り替わる。仮の言葉である英語で話しているときは演技しているようで楽でいられるけど日本語は“生のボク”と喋っている人の境目がわからない」と話した。

 村上さんの英語で思い出すのは、2009年にエルサレム賞を受賞した際の「壁と卵」のスピーチ。実は英語のスピーチはすべて暗記をしているそうで、30分位の英語のレクチャーなら全部ランニング中に覚えてしまうという。今は泳ぎながら覚えるのを練習していると茶目っ気をみせた。

師匠・柴田元幸さんとの翻訳講座

 柴田元幸さんとの「翻訳講座」は、村上さんが訳した3冊の本からそれぞれ1箇所ピックアップされた原文と「村上訳」「柴田訳」が並べられる形で話がすすんだ。自分の訳を肯定しても相手の訳を批判してもオッケー。

 まずは、レイモンド チャンドラーの『プレイバック』を題材に、主人公・フィリップ・マーロウを指す「一人称」を、「私」と訳した村上さんと「オレ」と訳した柴田さん。村上さんの「ミステリーファンからマーローは、“ボク”と話すんじゃないかと思われていた」という話にどっと笑いが起こった。

 主人公が育った環境や作品が発表された時期から「オレ」なのか「私」なのか「ボク」なのかが導き出される。また、トルーマン・カポーティ著「無頭の鷹」(『誕生日の子どもたち』収録)の中で「antique shop(アンティークショップ)」を「アンティークショップ」と訳した村上さんと「骨董店」と訳した柴田さん。そこで、村上さんは「(舞台が)アメリカ南部の田舎街だとしたら「骨董店」だけど、NYのマンハッタンのど真ん中だから「アンティークショップ」にしたことを話し、それには翻訳者それぞれのテクニックやセンスが感じられた。

「テキストを忘れちゃうのがボクの翻訳の肝」村上流翻訳のルールとは?

 まずは英語から日本語に訳し、何度かチェックしてある段階で英語を隠してしまう。日本語だけにした上で自分の文章だと思って直していく。原文を忘れて固い言葉はひらいていく。その結果、どうしても訳文が長くなってしまうのが村上スタイルだ。

 柴田さんは「村上さんは、普通の翻訳者が苦労するだろう、音を上げるだろうという所は最初からすごくしっかりした訳になっているのに驚かされるんですが、非常に簡単なところで間違っている(笑)」と話し、村上さんは「同じ間違いを何回もしちゃう。しばらくの間、肝臓と腎臓を間違えていたし、数字もしょっちゅう間違える(笑)」と漏らした。

 そんな村上さんの翻訳のコツは「人に2回読ませない」こと。

 村上さんは、「柴田さんは先生だからどうしても正確な方を選ぶ傾向があるよね。ボクは正確な言葉よりちょっとはずれている言葉でも文章としていいなと思うとそっちにいってしまう傾向があるね。目で見た感じ、言葉のレイアウトで考えることもある。正確にいえば柴田さんの訳のほうが正確だよね」と話した。

 柴田さんは、「センテンス単位でとったらそうかもしれないけど、単語単位、センテンス単位で正確さは大事じゃないなと最近は思う。かつて友人におまえの訳のほうが正しい気がする、ただ村上さんの訳のほうが面白いんだよね」と言われたことを打ち明け、翻訳家としての2人の異なるもち味が顕著に表れたエピソードだった。

 まだまだ訳したい海外文学が山ほどあるという村上さん。まさに今チャンドラーの『The Lady in the Lake』を翻訳中で早ければ年内に出版されるとか。

 確かにこの世に村上春樹は存在した。次回私たちの前にその姿を現すのはいつになるのだろう。盛大な拍手につつまれ、村上さんはその場をあとにした。

取材・文=中川寛子