エクサスケールの少女に出会う日を心待ちに、今を生きる 【書評】

文芸・カルチャー

2017/5/14

『エクサスケールの少女』(さかき漣/徳間書店)

人工知能(以下AI)の登場は我々に何をもたらすだろうか。幸福か、不幸か、あるいは一瞬にしてその姿を消していくだろうか。この問いへの答えは、疑うことなく、我々人間の判断にかかっている。ここ数年でAIに関するニュースが急激に増えた。世界中の大学、企業などの研究施設で、AIの性能を高めようと日々切磋琢磨されてこられたのだろう。その成果が私の日常レベルにおいても徐々に見えるようになってきた。AI自身が自発的にこの世に生まれ、機能を向上させ、自律的に増殖していくことはないだろう。AIは人間の手によって生み出され、社会に還元され、改良を重ねられていく。新しい世界が見たいとか、あの人の喜ぶ顔が見たいとか、お金を儲けたいとか、様々な人間の強い欲望と情熱、才能の総和が技術を向上させていく。

『エクサスケールの少女』の主人公・青磁は、愛する妹の難病を治すために、AI開発の道に進み、その秀才を活かして次々と画期的な発明を繰り広げていく。人間、さらには自然の猛威との闘いを経て、物語はドラマティックに終盤まで駆け抜ける。序盤はAIや歴史的知識を活性化させながら、物語にゆっくり入り込み、中盤はどのような展開になるのか不安を抱え、終盤でそれまでの活性化された知識が様々な感情を呼び起こす。読み終えれば、自然と人間、そしてAIの進化まで続く悠久の時間が記憶を駆け巡る。

彼の瞬間瞬間の判断と行動が、AIを進化させ、さらには彼を取り巻く人間関係を変えていった。それはAIと社会との関係の変化でもあった。そう遠くはない未来、我々の世界も青磁さえ予想できない世界がシンギラリティの向こう側で待ち構えている。その前後で、我々人間一人一人がどのように判断するだろうか。「AIがどのようになっていくか?」という他人事の問題提起ではなく、「私がどのようにするか?」という問題のほうが前者の問いの答えにより近いことを教えてくれるような気がするのだ。

AIが意識を持つ日が来るとする。意識が宿ればAIに主体性が表出し、そこに強い「いのち」が宿っているように人間は認識してしまうものである。AIは我々にとってモノから生き物と化す。その時から人間とAIの関係性は急に複雑になる。もともと人間の幸せを願って創られたはずであるモノだったが、AIの幸せも考えざるを得なくなるのだ。すると、本書でも言及されるように、どう生きるか、この世界をどう見るか、という生きる根本に立ち返る「哲学の時代」が到来する予感がする。社会的な価値を辿れば、今は「モノの時代」から「コトの時代」への移行期の終わりにあるように思う。「哲学の時代」は内的な世界に価値が偏ることを意味する。価値の形は見えるものから見えないものへ、その所在は外界から内界へ変化していくだろう。個々が哲学を持ち、見えないものと対峙する、非常に特殊で、人として非常に心豊かな時代になるのではないかと、個人的には楽しみにしている。

情景がありありと浮かび上がるような詳細で、きめ細かな本書の描写は、まるで映画を観ているような感覚に陥る。また、私の地元である島根、学生時代を過した京都、現在住んでいる東京を舞台に展開されていく物語に、よりいっそうその世界観に入り込んでしまった。エクサスケールの少女は実際にいて、いまどこかでこの時代を見守っているに違いない。彼女に会える時を心待ちにして、私もいまを生きていこうと思う。

-書店員 釜屋憲彦-

 

〈プロフィール〉
かまや・のりひこ 京都大学大学院人間・環境学研究科認知科学分野修了。様々な生物が体験する世界(環世界)をテーマとした研究、企画、キュレーション活動を行っている。「環世界展」(下北沢DARWIN ROOM主催)キュレーター。