お寺消滅? 葬式はAmazon、お墓不要な現代日本でお寺と人々を救う「聖」とは?

社会

2017/5/29

『聖の社会学』(勝桂子/イースト・プレス)

 人生に絶対ということはまずない。だが、人は誰でもいつかは死ぬ。これだけは必ず起こることである。超高齢化社会であろうとお葬式はそうそうなくならないから、やや不謹慎ではあるが、お寺は安泰のように思える。しかし、本書『聖の社会学』(勝桂子/イースト・プレス)によれば、バブル崩壊以降、お寺とのつきあいや葬送が変わり、寺離れ、墓じまいが大流行、経営が成り立たず路頭に迷うお寺が増えているというのだ。私は東京近郊で親と兄弟だけの核家族に育ち、家に仏壇はない。田舎は遠く、祖父母の葬式には出席したが、四十九日やお盆、一周忌、三回忌など節目の儀礼には出ていない。お寺やお坊さんとの接点が全くないどころか、こういった儀礼をどう行えばいいのかすらわかっていないのだが、今や私のような人は珍しくはないだろう。

 以前は家の中で死と埋葬の方法が共有されていた。先祖への感謝や仏壇に手を合わせ心を落ち着けることも習慣として次の世代に伝わっていった。だが、核家族化が進み、時代は変わった。イエ制度が崩壊しているのにお寺の制度は昔のままで、時代にそぐわなくなっている。そして、日本における仏教は信仰というよりは慣習なので、この慣習が廃れるとお寺も廃れていく。バブル崩壊後、平均的な家庭では、亡くなった人の供養のために払えるお金が少なくなったことも寺離れや墓じまいを加速させる原因だ。お金に余裕もなくありがたみも感じていないのに檀家としてお寺にお金を払い続けることはできないというわけだ。さらに、お葬式はAmazonやイオン等の僧侶派遣サービスが出現、お墓も菩提寺ではなく墓守不要の永代供養や納骨堂、自然葬を選択する人が増え、お寺の先行きは厳しい。では、現代において、お寺やお坊さんはもはや必要とされていないのだろうか?

 そんなことはない。経済成長が終焉し、これほど生老病死苦のあふれている時代に、仏の教えが必要とされない理由が見つからない、と著者はいう。その証拠に、僧侶の著す人生訓や生き方本は飛ぶように売れている。今こそ釈尊の教えが必要とされているのだ。

 仏の教えを民衆に伝えようとする人たちを本書では「聖」と呼んでいる。聖とは、宗派の教えや僧侶としての地位をきわめることよりも、苦悩する人々に仏の教えを活かす術を伝えることを、主たる課題として生きる人たちだ。そして、お寺や僧侶が人々から再び必要とされるためのキーになるのが「聖」であるとしている。本書では、昨今の葬儀、墓に関する社会動向とお寺が直面している問題の分析、そして今の時代に求められるお寺の役割について提言されている。葬儀のあり方などについても言及されており、10年後には親を見送るかもしれない私としてはこの部分が特に参考になった。葬送儀礼とは、死別という現実を腑に落としていく“あの世観”が本質であり、遺された側の心の整理がつくことが大事である。葬式によって社会的に死を共有することで自身を納得させる面があるとのことだ。身内だけの家族葬が最近増えているが、どのような送り方をするかはこういった点からも考えることが大切だ。

 しがらみが薄くなり自由になった反面、生きるのがつらい時代でもある。この世でなんのために生きたかを観じ、腑に落ちて人生を終える、そのためにお寺やお坊さんができることは多いはず。お寺とご縁がある人もない人も一読してみてはいかがだろうか。

文=高橋輝実