警察による証拠捏造と自白強要で下された死刑判決――奪われた人生と冤罪をめぐる戦い

社会

2017/5/25

『死刑捏造: 松山事件・尊厳かけた戦いの末に』(藤原 聡、宮野健男、共同通信社:著/筑摩書房)

かえせ
かえせ
十年をかえせ
家族のもとにボクをかえせ

 これは1965年、斉藤幸夫が仙台市の刑務所から、文通相手に送った詩の一部である。幸夫は放火殺人事件の犯人として死刑判決を受けていた。しかし、実際には警察から自供を強要されており、提出された証拠は捏造だった。幸夫は1984年に無罪が証明されるまで、30年近くも無実の罪で拘束され人生を台無しにされたのである。

 松山事件として知られる冤罪の顛末をまとめたルポルタージュが『死刑捏造: 松山事件・尊厳かけた戦いの末に』(藤原 聡、宮野健男、共同通信社:著/筑摩書房)である。本件に限らず、近年では多くの冤罪が発覚し問題となっている。冤罪事件の詳しい経緯を知ることは、このような悲劇を繰り返さないための糧となるだろう。

 1955年10月、宮城県松山町で農家が全焼し、一家4人の他殺体が発見された。宮城県警が拘束したのが、事件当時、近所に住んでいた24歳の青年、幸夫だった。仕事が長続きせず、親から貰う小遣いで遊び暮らしていた幸夫には悪い評判が囁かれていた。警察は金に困った幸夫が強盗目的で事件を起こしたと決めつけたのである。幸夫は全く関係のない喧嘩で別件逮捕され、以後、拷問に近い取調べを受けることになる。

 来る日も来る日も暴行を受けながら、やってもいない事件の自供を迫られているうち、遂に幸夫の心は折れる。同房者から「やったことにして裁判で本当のことを言え」と吹き込まれたのがきっかけだった。幸夫は「俺がやりました」と口にしてしまい、警察に誘導されながら調書を取られていく。後から分かったことだが、幸夫に自供を勧めた同房者は警察と結びついていた可能性が大きかった。

 それでも幸夫は裁判を受ければ、無実が証明されると信じていた。しかし、判事は自供を強要したことを隠した警察の言葉を信じた。決定的だったのは、幸夫の家から血痕のついた掛け布団が押収されたことである。幸夫には死刑判決が下され、上告も控訴も棄却される。

 最後まで法を信じ、それでも無実の罪を被せられた幸夫の無念は計り知れない。刑務所ではいつ刑が執行されるかも分からない日々が続く。看守が他の死刑囚を刑場へと連れて行く足音を、幸夫は長年にわたり聞いてきた。恐怖と怒りは幸夫を人間不信にしたこともあったという。

 それでも、家族や支援者は諦めずに戦い続けた。特に母ヒデは老体にもかかわらず毎日のように辻立を行い、法務大臣との面会も実現させる。松山事件を担当した刑事たちのもとを訪れ、証言を撤回するように迫る。刑事たちは順調に出世しており、中には勲章を授かっていた者すらいたのだから驚愕だ。

 支援が実を結び、1979年に再審が決定する。やり直された裁判で掛け布団の血痕も再検証されていく。そして、押収後の日時によって血痕の数が異なっているうえ、形状にも不審点があることが明らかとなる。そもそも掛け布団は幸夫の兄弟の物だと家族は主張し続けていた。当時の鑑定は法医学の権威だった三木敏行と古畑種基によって行われていたが、古畑が関わった複数の事件で冤罪が発覚し、信憑性は落ちていた。なお、三木は古畑の一番弟子である。違和感に満ちた自供テープも初公開され、幸夫の無罪は確定的になっていく。

 にもかかわらず、検察側は再審でも最後まで死刑を求刑し続けた。無罪判決後も県警が謝罪の言葉を述べることはなかった。法の番人であるはずの機関が体面を優先させ、過ちから学ぶ姿勢を見せなかったことはにわかに信じがたい。本書では、松山事件の真犯人についても証拠を挙げながら示唆している。冤罪は無関係の人間の人生を奪うことはもちろんだが、真犯人を野放しにしてしまう意味でもあってはならない事態なのだ。

 働き盛りの年代を刑務所で過ごした幸夫、そして法との戦いに人生をなげうった家族のその後も本書は追っている。判決が覆ったところで、時間と壊れた絆は絶対に戻らない。冤罪事件とは過去の物語ではなく、現在進行形で起こりうる問題だ。緻密な取材を通して本書は、法の在り方を問い直している。

文=石塚就一