お母さんは処女じゃないんだな――一度でもそんな感慨にふけったことのある人へ『荒ぶる季節の乙女どもよ。』

マンガ

更新日:2017/6/26

『荒ぶる季節の乙女どもよ。』(絵本奈央/講談社)

 お母さんは処女じゃないんだな――。少女時代、ふとそんな当たり前のことに思い至り、愕然としたことのある女子は多いんじゃないだろうか。性への憧れ、同時に恐怖。そしてけがらわしさ。でも捨てきれない妄想。大人の階段をのぼる多感な少女たちを描いたマンガ『荒ぶる季節の乙女どもよ。』(絵本奈央/講談社)。原作は『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』『心が叫びたがってるんだ。』などで知られる岡田麿里。とにかく繊細な十代の“イタさ”を描いたら天下一品の彼女、本作でもあますところなくその本領を発揮している。

 主人公は、なんの特徴もないのがむしろ特徴、な普通女子・小野寺和紗をはじめとする、5人の女子高生たち。カップルがいちゃついているだけで過敏に反応してしまう、超潔癖な部長・曾根崎り香に、出版社に小説をもちこみ謎の作家オーラをはなつ本郷ひと葉。和紗とおなじくしごく普通なおっとり少女・須藤百々子。そして誰もがその美貌に振り返る菅原新菜。共通点は、文芸部に所属していること。そして、処女であるということだ。

 文学読みの彼女たちは、知識としては“それ”がなんたるかを知っている。すでに体験済みの早熟な少女たちよりも、妄想の幅も広い。それだけに、恐怖と羞恥心は肥大化し、彼女たちの自意識をかきみだす。

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 新菜をのぞけば全員がいわゆる地味女子。女子社会のヒエラルキーでは下層部の人間だ。現実では、恋愛事に近づくことさえ許されない。色気づこうものなら、派手な女子たちに馬鹿にされるだけ。けれど、それでも、自分たちが女子であることには変わりがない。学校には男子がいて、日常のそこかしこに性の気配がただよっている。その狭間で混乱し、たとえば真剣に「セックスと口にするのもいかがわしいから何か造語を考えよう」とホワイトボードを使って会議したりする姿は、はたから見れば痛々しいが、同時に愛らしくて仕方がない。表情豊かな作画のかわいらしさのおかげ、というだけではないだろう。それは誰もが、もしかしたらリア充にカテゴライズされる子たちでさえ、通過している道だからだ。

 なかでも、とくに混乱をきわめるのが和紗だ。昔と変わらない、優しくて鉄道好きの幼なじみ・泉が急にかっこよくなって、そばにいるだけでも反感をかってしまうことから、その関係がこじれはじめてしまっている。「童貞もらっちゃおっかな」と笑う同級生の姿に、望めば泉はいつでもあちら側に行けてしまう――そんなことに気づいてショックを受けているそのさなか、彼女はなんと目撃してしまうのだ。泉が自室でオナニーしているシーンを。

 いやもう、正直、和紗のショックよりも、泉の衝撃を想像するといたたまれなくて泣きそうになる。かわいそう。ほんとにかわいそう。見開きを使って描かれたその場面は、あまりの恥ずかしさに何度も読み返して、そして、笑った(泉、ごめん)。そして思った。オトナになったら笑ってしまえるようなことが、子供のころは本当に一大事だったなあと。いやいまだって笑い事では全然ないんですけども。その、大人になってしまえば忘れてしまいそうな繊細な部分を掬い取るのが、岡田さんは本当にうまいし、絵本さんの作画が絶妙に描き出していると感じた場面だった。

 性が介在しはじめたことで自分の恋心にも気づいた和紗の今後にも要注目だが、もうひとり混乱激しいのが潔癖部長のり香。性的愚者どもめ!と同級生を心中で罵る彼女を、もう少し彼女と年が近い時に読んでいたら、こちらのほうがいたたまれなすぎて受け止めきれなかったかもしれない。賢くて、耳年増で、早熟なんだけど幼くて。現実に対応しきれない彼女が、自分とは正反対の同級生たちのきらめきを、どのように受け入れていくのか、はたまた受け入れきれずに暴走を続けていくのか、その姿も見守っていきたい。

 少女の私はもうすぐ死ぬ、だから死ぬ前にセックスがしてみたい。そう言った新菜をきっかけに動き出した、めくるめく文学的純情模様。唯一の居場所である文芸部が廃部になるかも、というところで終わった1巻。2巻の発売が待ちきれない。

文=立花もも