その歴史は横浜山手から始まった―麒麟のラベルは、いかに育ってきたか

社会

公開日:2017/7/19

『日本の会社 キリンビールの110年 絵で見る歴史図鑑』(夢現舎:編/彩流社)

 JR東海道線で神奈川の横浜~川崎間を走っていると、海側に工業地帯が見える。その車窓の中でも「KIRIN」と書かれた屋上の赤い看板がひときわ印象的なのが、キリンビール横浜工場だ。創業時には同じ横浜市内の山手地区にあったのだが、関東大震災で工場が倒壊してしまったため、1926年に同じく市内の生麦に移転。以来、この地でずっとビールを造り続けている。

 本書『日本の会社 キリンビールの110年 絵で見る歴史図鑑』(夢現舎:編/彩流社)は、キリンビールの歴史をグラフィカルに振り返る1冊だ。キリンビール株式会社提供による歴代のラベルデザインや、設立当初の各工場の写真も掲載され、それらを眺めているだけでも楽しい。また、戦前のイラストポスターを見比べられるのも嬉しいところ。鮮やかに描かれたビールと艶やかな女性像に、つい見入ってしまう。

 ポスターもさることながら、やはりキリンビールといえば、ラベルに描かれた「聖獣麒麟」が思い浮かぶだろう。キリンビールの前身である「ジャパン・ブルワリー・カンパニー」(以下、JBC)は、1885年に横浜市山手で創業されるが、1907年に「麒麟麦酒株式会社」が事業を受け継ぎ、今に至る。元々JBCは、在留外国人たちが中心となり設立された。三菱社長の岩崎彌之助をはじめ9人の日本人も株主として参加しており、販売に際し三菱の荘田平五郎が「東洋にが麒麟という霊獣が居るのだから、それを商標に」と提案したものだという。当時、輸入ビールのラベルには狼や猫などの動物が描かれていたが、それに対しての差別化のようだ。

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 意外にも、開業当時のラベルでは麒麟が小さく描かれており、今とはだいぶ雰囲気が違う。基本となるカラーも青と黒で、重厚さを感じる。しかし翌年には大きく描かれ現在のデザインの原型となり、白地に赤と黄を基調とした、お馴染みの配色もここから始まる。その顔をよく見ると今よりも彫りが深く体も青緑色で、より生物的な印象を受ける。これは是非とも今の麒麟と見比べてほしいところ。

 その後、第二次大戦中は戦時統制の下でビールの生産制限が始まる。販売の配給制や瓶の共用化の他、銘柄別ラベルも廃止され、「家庭用麦酒」または「業務用麦酒」と表記された、実に質素な一色刷りのものが貼られていた。かろうじて左右に麦の穂がデザインされているものの、やはり麒麟が居ないと面白みに欠ける。

 麒麟デザインが復活するのは、戦後の1949年12月から。その頃は青一色刷りで、見るとやや物足りない気もしたが、青色だけに爽やかな印象も感じる。そして高度成長期に入った1957年に多色刷りラベルが復活。その頃にはビール人気も沸騰し、1972年にはキリンビールのシェアが60%に達する。日経新聞によると、現在シェアのトップであるアサヒビールですら39%だから、60%というのは実に驚異的な数字だ。小生自身、子供の頃には麒麟が描かれた看板を飲食店や酒屋などで、数多く見ていた記憶がある。

 ラベルの歴史を知ってキリンビールへの興味が深まったなら、全国9か所にある工場へ見学に行っても面白い。また、現在は東京都中野区にある本社受付フロアに「ココニワ」という展示スペースがあり、誰でも予約せず無料で入場可能。代表的ブランドの紹介や、草創期の商品やラベルなどが見られる。だが、発祥の地である横浜には工場だけでなくもう一か所、小生のオススメスポットがある。それは横浜市磯子区滝頭にある「横浜市電保存館」だ。

 その名の通り旧横浜市電を展示保存している施設だが、実は明治・大正期にはビール輸送に市電が活用されており、館内には当時の輸送に使われた木箱を再現して展示。さらに保存された市電にも戦前から戦後のキリンビールポスターが掲示されており、その時代を再現している。横浜駅からも滝頭行きバスが出ておりアクセスも簡単なので、是非一度訪ねてほしい。

文=犬山しんのすけ