“ひとりぼっち”で何が悪い! 痛快な言葉で綴られる辞書形式エッセイ

暮らし

公開日:2017/8/1

『ひとりぼっちの辞典』(勢古浩爾/清流出版)

 ひとりが好きだ――そんなことをいってしまえば最後。「強がっている」「寂しいやつ」「信じられないやつ」というレッテルを張られてしまう。

 いやいや、ひとりは自由なのだ! と声を大にしていいたいのである。ひとりで旅に出れば、自分が行きたい場所にだけ行くことができ、じっくり見たい場所にいつまでも居てもいい。ひとりで焼肉に行けば、こだわりの焼き加減で最高の状態の肉を味わうことができる。大事に育てあげたお肉がいつの間にか網から消えていた…という悲劇も起こらない。ひとりで居酒屋に行けば、もう帰って寝たいというときも人の顔色を見ることなくお会計することも可能だ。

自分の愉しみを見つけ、これが自分だと輪郭を明確にし、これでいいと自得すること、つまりつねに〈自分に戻っていること〉である。そして威風堂々とまではいわないが、ごくふつうの顏をして自由に「ひとり」を生きていけばいいのである。「ひとり」は人間の基本なんだから。

 まさに我が意を得たり、と乗っかってしまい大変恐縮であるが、上記の引用文は『ひとりぼっちの辞典』(勢古浩爾/清流出版)で述べられている一言だ。本書は「ひとりぼっち」というテーマのもと辞書形式で書かれたエッセイとなっている。世の中に蔓延する「集団」「同調圧力」「空気」などをズバズバとシニカルに、時にはユーモラスに切っていく内容となっている。

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 本書を読んで思わず耳が痛くなるような金言もあれば、「確かに!」と納得したり、「それはどうだろう…」とちょっと著者の考え方に反論してみたり、「自分はどうか?」と自らの身に置き換えて様々なことを考えるきっかけとなったりすることもあった。まさに自分の考えや思いの輪郭を明確にすることができる一冊である。その中で私が自らを振り返るきっかけとなったものを以下にいくつか紹介したい。

■謝る (1)謝ることができる人は成長する。人間の幅もでる。謝ることができない人間、「謝れ」という人間は成長できない。信頼もできない。

 20代前半の頃、私は「他人に謝ると負け」だと考え、「自分は悪くない、悪いのは自分以外の人間や他人」と責任を周囲に押し付けていた。今振り返れば、自分が悪くないと謝りもしない無責任な人間が成長できるわけがない。では、今はどうだろうか。自分の非を認め、それを改めようとしているだろうか。他人に謝罪を求めていないだろうか。“謝る”という項目では自分を見つめなおすきっかけを与えてくれた。

■ご飯 (1)ひとりで食べても、うまいものはうまい。だれと食べようと、まずいものはまずい。

 さらに、本文で「誰かとご飯を食べるとおいしい」教の信者をバッサリ切り刻む。思わずニヤニヤしながら読んでいたが、ふと「オレ、よくこれ言うかもしれない…」と思い当たる。冷静に考えてみると、なんともステレオタイプな発言で、何にも考えていない一言であったと気づいた。上記にある通り、ひとりであろうがなかろうが、うまいものはうまいのだ。うん、もっと色々考えて喋らなければいけないな…とこの項目ではそんなことを考えた。

■みんな (1)自分の言い分を通したり、言い訳や言い逃れをしたり正当化しようとするときに持ち出される実態のない援軍。だれも見たことがない。

 中学生の頃だった。まだ、今のように学生が携帯電話を持っていなかった時、どうしても携帯を与えてほしかった私は「みんな持ってるよ!」とおねだりした、そんなことを思い出す。具体的に誰かと言われれば困る。なぜなら数えてみれば、当時携帯電話を持っている同級生など片手で足りるのだから。大人になっても似たような「世間」「世論」「常識」と具体的な主語のない言葉をよく聞くな…なんてことをつい考えてしまった。“実態のない援軍”には注意したいところだ。

 本書は決して「同調圧力に屈するな!」「人間ひとりひとりの自立を!」などというお堅い内容ではない。そういう意見があるのだな、自分はどうかな? というテイストで読み進めてみるのがおススメだ。こうした自分を見つめる“ひとり”の時間は人間の基本なのだから。

文=冴島友貴