森沢明夫『虹の岬の喫茶店』の番外編が読める! 書き下ろし新作を無料公開

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2017/9/6


とある広場で“あの人”


今月の“あの人”は…虹の岬の喫茶店』の柏木悦子

『虹の岬の喫茶店』 森沢明夫/幻冬舎文庫

海の向こうに富士山が見える岬の突端にその喫茶店はある。木製の棚にびっしりと並べられたCDやレコード、壁にかけられた美しい虹の絵――ここ岬カフェを一人で切り盛りするのが初老の未亡人・柏木悦子さんだ。彼女の入れる素晴らしく美味しいコーヒー、そして、訪れるお客さんの気持ちに優しく寄り添う素敵な音楽。人生に疲れ、心に傷を負った人たちは、コーヒーと音楽、そして、悦子さんとの語らいの中に希望を見出し、人生という荒波に再び、漕ぎ出していく。読後、静かな感動に胸がふるえる連作短編集。吉永小百合自身が企画・主演を務め、『ふしぎな岬の物語』として、2014年に映画化。

『虹の岬の喫茶店』番外編

レット・イット・ビー《初夏》【第一話】 森沢明夫

写真提供=Getty Image

 左手には、きらめく海。

 右手には、新緑の山並み。

 そして、空は抜けるような五月晴れ。

 ロケーションには非の打ち所がないけれど、ゴールデンウイーク真っ只中の午後三時過ぎの道路は、ひどい渋滞だった。歩道をのんびり歩く漁師町のおばあさんに追い抜かれるようなノロノロ運転になってから、もう三十分は過ぎている。

「ちっとも進まないな」

 助手席の父が、嗄れた声でぼやいた。

「うん……」

 ぼやきたいのは、ずっと運転をしているこっちの方だよ、とわたしは胸裏でぼやき返す。

 ときどき、開け放ったサイドウインドウから、やわらかな海風が吹き込んでくる。わたしは新鮮なその風を胸いっぱいに吸って、「ふう」と息を吐いた。そして、気晴らしに広い海原を眺めようと思って──、やめた。

 海のある左側には、父が座っているからだ。

 不機嫌そうなへの字口と、何を考えているのかさっぱり分からない細い目。頭頂部だけ薄くなった白髪に、白い無精髭。染みと皺の増えた顔。着古した長袖のポロシャツとジーンズは若作りだけれど、今年で七十五歳になったはずだ。

「志帆(しほ)」

 痰が絡んだような声で、父がわたしを呼んだ。

「ん?」

 わたしは前を向いたまま、一文字で返す。

「向日葵(ひまわり)、母さんが好きだったのを覚えてたのか?」

「え……、たまたま、だけど」

「そうか」

「うん……」

「母さん、よく縁側の塀の前に植えてたんだ。覚えてないか?」

「そうだっけ。覚えてないかも……。でも、お母さんが好きだったのなら、よかったよ」

 前の車が少し動いた。わたしもブレーキから足を外して、数メートルだけ愛車を進ませた。そして、また止まる。

 毎年、ゴールデンウイークの真っ只中には、こんなふうに父と二人で気詰まりな墓参りをしている。つまり今日は、母の命日なのだ。

 母が病気で急逝したのは、わたしが中学一年生の頃だった。それ以来、わたしはずっと寡黙な父と、古い実家で質素な二人暮らしを続けている。あまり数えたくはないけれど、そんな日陰みたいな生活も、かれこれ二十七年になる。

 ついさっき、わたしがお墓に供えた供花のなかに向日葵が入っているのを見て、父はひとり感傷的になったようだけど、でも、わたしは本当に知らなかった。生前の母が向日葵を好んでいたなんて。今朝、たまたま花屋で供花を買うときに、ちょっと目に付いた小型の向日葵を足しただけのことだ。

 車がまた少し動いた。道幅の狭いトンネルに入ると、わたしは窓ガラスを閉めた。トラックの排気ガスが臭うのだ。

 やがてトンネルを抜けたところで、ふたたび父が口を開いた。

「おい、そこ、左な」

「分かってるよ」

 わたしは海側へとステアリングを切った。歩道を横切り、未舗装の凸凹道へと入っていく。「道」といっても、そこは雑草の生い茂るただの轍のようなものだ。その轍に沿ってさらに進むと、崖下に広々とした海を見下ろす小さな岬の突端に着く。

 目的の「岬カフェ」は、今日も海風に吹かれながら、荒涼とした岬の先端にちょこんとあった。いい具合に色あせたブルーの板壁と、手すりのついた木製のテラス席。わたしはカフェの脇に車を停めて、サイドブレーキを引く。

「相変わらずオンボロな店だな」

 父は失礼なことをつぶやいて、杖を手にした。わたしは先に降りて助手席側に回る。そして、ドアを開け、手を貸しながら父を車から降ろしてやった。それと同時に、テラスの脇の犬小屋で「ワウ」と犬が鳴いた。尻尾を振って嬉しそうに駆け寄ってくる三本脚の白い犬を見て、わたしは破顔した。

「わあ、コタロー、元気だった?」

 わたしは赤い首輪の辺りをごしごし撫でてやった。この犬は、交通事故で右の前脚を失っているけれど、お客さんが来ると必ず出迎えて、カフェの入り口のドアまでエスコートしてくれるのだ。

 わたしたちはコタローに付いていった。父は器用に杖をついて歩いていたが、ドアの手前にある三段の階段を前に、いったん立ち止まった。わたしは父の二の腕を両手でつかみ、支えながら上りはじめる。父の腕は筋肉が落ちて、細く、枯れ枝のように頼りない。

 三段目に足をかけたとき、カフェのドアが内側から開いた。

「あら、やっぱり志帆ちゃんと蓮二(れんじ)さん。お久しぶりね」

 なかから顔を出したのは、この店の女主人、柏木悦子さんだ。

「あ、ご無沙汰してます」

 言いながらわたしは、五年ぶりの悦子さんを頭のてっぺんからつま先まで舐めるように見てしまった。おばあさん、と言うべき年齢にもかかわらず、背筋は弓のようにピンと伸びていて、相変わらず上品で、やわらかな空気をまとっている。

「志帆ちゃん、ますます綺麗になって──。いくつになったの?」

「うわ、悦子さん、会って早々、それを訊く? わたし、もうすぐ感謝の歳になっちゃうんだから、内緒です」

 冗談めかして言うと、悦子さんも悪戯っぽく笑う。

「感謝──ってことは、サンとキューの歳ね」

「おかげさまで、もう立派すぎるアラフォーです」

 わたしは自虐ネタを口にして、ため息をついてみせた。すると、父が横から口を挟んできた。

「こいつ、いい歳して嫁にも行けなくてさ。参ったよ、ほんと」

 出た。いつもの、早く結婚しろ攻撃──。この話は、わたしを何よりも苛立たせる。父は、それを知っていて、わざと口にするのだ。しかも、久しぶりに会った他人の前で。

「放っておいてよ。お父さんには関係ないでしょ」

 不機嫌が顔に出てしまったのが、自分でも分かる。

「蓮二さん、足元、気をつけて。ゆっくりね」

 悦子さんは、久しぶりに会った父が杖を必要としていることに関しては何も言わずにいてくれた。ただ、穏やかな微笑みを浮かべたまま、わたしと反対側から父の腕に手を添えてくれたのだ。

「なんだよ、俺は大丈夫だよ、ひとりで」

 支えてもらっているくせに、父は偉そうに言う。言われた悦子さんは、こっそりわたしを見て、微笑みながらウインクしてみせた。こういう仕草が嫌味にならないのが、悦子さんの人柄を物語っていると思う。

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もりさわ・あきお●1969年、千葉県生まれ。『ラストサムライ―片目のチャンピオン武田幸三』で2006年度 ミズノ スポーツライター賞優秀賞受賞。その後、小説、エッセイ、絵本、ノンフィクションなど幅広いジャンルで執筆。『津軽百年食堂』『ライアの祈り』『夏美のホタル』『癒し屋キリコの約束』など映像化された著書も多い。近著に『あなたへ』(高倉健主演映画の小説版)、『きらきら眼鏡』『エミリの小さな包丁』『たまちゃんのおつかい便』など。