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2019/3/20

『ゼンマイが解けて』#1 呼び鈴

 リイカ時計工房は、銀座の外れの路地を入った先、古いビルの三階にあった。

 先ほど手渡された地図を確かめて、斎藤愛菜絵(さいとうまなえ)は、ゆっくり、その階段を上がった。少し、きしきし音の鳴る階段だった。

 マンションの一室のようだが、とびらには、木製のボードで時計工房の名がぶら下げられていて、彼女は呼び鈴を押す。

「どうぞー」と、中からのんびりした声が返ってきた。

 入っていくと正面に小さなカウンターがあり、片方の目にレンズをつけた白髪の人が、向かい合って座った。グレイのベストを着ている。室内は、意外にもそれなりの広さがあって、それぞれ机に向かっている、七、八名の働き手が見えた。

Photo=Getty Images

「紹介してもらって、来ました」

 先ほどまで訪れていた百貨店の名を出したが、別に懇意でもないようだった。

「それで、ご用は?」

 手短に頼みますよ、とでも言いたげな、乾いたやり取りに思えた。

「大した時計ではないのですが、母の形見なので、直せるなら直してほしいんです。切れた電池をそのままにしてあったので、液漏れで相当傷んでいると言われて」

 ケースも紛失しているので、ハンカチに包んできた。バッグからそっと取り出したその時計は、そんなに珍しいものでもない。大体、電池式のクォーツだ。茶色の革をベージュに替えて使うつもりで、百貨店でベルトだけ先に交換してきた。オーバーホールも頼んだところ、断られてしまった。できるとしたら、リイカ時計工房だと、地図を渡されたのだ。

「少なくとも三年はそのままにしてあったので」と、言いかけたのを、その人は手を軽くあげて制した。

「時計なんだったら、まあ大抵は直せますよ。しばらく預かっていいですね?」

「急いではいないんです。ただ、大体の費用はうかがっておいてよろしいですか?」

 何しろ場所が、外れとは言え銀座だ。百貨店の窓口で断られたくらいなのだから、専門的な技術への代価はつくのだろう。

 その人はぎろっとこちらを見上げた。いつの間にか、レンズは外されていて淡い色の目が見えた。

「見積もりは出しますよ。オーバーホールのほかに、このフレームね、元々はシルバーに金の加工がしてあったはずなんだけど、変色しているからね、磨きをかけてあげるときれいになるけど」

 愛菜絵が思わず黙り込むと、

「予算が決まってるんですね?」と、単刀直入に訊かれた。

 いくらと決めてきたわけではなかった。ただ、少しでも安価だと助かるのは確かだった。

 店には関係のない事情だが、愛菜絵は夫と離婚して、一人暮らしをはじめたばかりだった。この一年の間に起きたことは、まだ友人たちにもうまく話せていない。

 結婚して十年が過ぎていた。夫婦は、子どもを授かることができなかった。子どもがいたらうまくいったのかも、今はわからない。気づけば、それぞれ個別の時間を優先するようになっていた。愛菜絵のほうは、その時間の中で、特定の同僚とよく過ごすようになった。互いに家庭があり、だからこそ緩い安堵があった。食事をしたり、映画を観る関係が続いた。それくらいは、許されるような気がしていた。けれど夫は、ある疑いを抱きはじめた。だから会わないようにしよう、とは思えないほど大切な時間になっていたのは確かだった。いつしか二人には探偵がつけられており、夫は相手を訴えた。

 夫に詫びてやり直そうと思えばできたのかもしれない。けれど、烈火のごとく怒る夫を前に、心が冷えていった。私は、所有物だったのだろうか。心まで束縛されるのが結婚なのだろうか。だったら、もうそんな繋がりは要らないと思ってしまった。相手は賠償金を求められ、職場にまで訴えられた。愛菜絵は、仕事まで失ってはじめて、もともと自分の立ち位置などどこにもなかったようにも感じた。

「すみません、会社を辞めてしまったばかりで。でも、なんとかします」

 思わず本音が出てしまった。住まいを出て、一人で借りられた部屋は、学生たちが住むようなワンルームだ。その上、老朽化著しい。ただそこには屋上があった。上がってみると、今時、近隣のビルのネオン広告が見渡せた。遠くには東京タワーの灯りまでが。

 心機一転なのだから、真新しい部屋を探そうかとも思っていたのに、そんな古いマンションの古い景色を見ていると、むしろ心が落ち着いた。

 不意に、荷物の中に収めた母の形見の時計を思い出したのも、その場所でだった。母はこんな離婚を知ったら、胸を痛めたに違いなかったが、どうあれ、ため息を飲み込んで、娘のそばには寄り添ってくれたろうか。

「そうだ、これね、私の名刺です。おうい、預かり書ちょうだい」

 対応した男がそう奥へ呼びかけると、ひょろっと背の高いエプロン姿の男が、頭にルーペをのせて現れた。

 署名欄に新しい住所を書こうとして、まだ記憶が定かでないのを手帳で確かめる。

「斎藤愛菜絵さんね、平日のご連絡先は、こちらの携帯の番号でよろしい?」

「はい、構いません」

 頭を下げて椅子から立ち上がりかけたとき、不意にその人は言った。受け取った名刺には、〈時計修理 マイスター 福永理衣(ふくながりい)〉と書かれてあった。

「あのね、もしよかったら、うちで働いてみる気はないですか? 募集中なんだよね。前の子が、出産で辞めてしまったばかりで」

 視線の先の壁には、確かに〈事務員募集〉のチラシが貼ってある。年齢制限は三十五歳と書いてある。

「でも私、もう三十八歳です」

「いや、関係ない。条件もそうよくはないけど、どうだい?」

 愛菜絵は驚いてもう一度、椅子に座った。

 

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谷村志穂(たにむら・しほ)1962年、北海道生まれ。北海道大学農学部卒業。90年、ノンフィクション『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーに、91年に初の小説『アクアリウムの鯨』を発表。2003年『海猫』で島清恋愛文学賞を受賞。著作に、『余命』『黒髪』『尋ね人』『空しか、見えない』『いそぶえ』『ボルケイノ・ホテル』『大沼ワルツ』など多数。出身地である北海道を舞台にした作品も多く、15年より北海道七飯町(大沼国定公園)観光大使も務める。エッセイ『ききりんご紀行』で、17年に青森りんご勲章受章。