町田康、鬱の総量をお金で算定「だいたい10万1000円」

文芸・カルチャー

更新日:2017/11/27

町田康『バイ貝』(双葉社)の冒頭は、ドストエフスキーの言葉からはじまる。曰く、「貨幣は鋳造された自由である」。出典はシベリア流刑をもとにした『死の家の記録』である。 このドストエフスキーの引用に続いて、次のように書かれている。。

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〈カネ、銭を遣うとき我々はなにものからか解放されている。なぜかと言うとカネを稼ぐとき我々は、確実になにものかに縛られているからで〉
縛られているゆえ、カネを稼ぐと“鬱”が蓄積していく。そして、その蓄積した“鬱”をはらすためにカネを遣う。

「矛盾していますよね。カネを遣ってしまうと、また稼がなければいけないわけで。べつに資本主義を批判するために書いたわけじゃないんですけど、いつも希望は満たされないようなところがありますね。自由なんて幻みたいなところがあります。だいたいみんな、買物をするときはそうじゃないですか。これがあると便利だろうと思って電動大根おろし器なんて買ってみる。でもいざ使ってみたら面倒くさい。カメラなんかでも、このレンズを買ったらすごくいい写真が撮れるんじゃないかと思う。でも技術がともなわないから、買っても写真がよくなるわけじゃない」。
『バイ貝』には買物にまつわる幻想と絶望の連鎖が描かれているのである。

主人公はさまざまなものを“バイ貝”し、鬱を散じようと試みて、現在の自分の鬱の総量をおおよそ10万1000円と見積もる。この金額が微妙だ。町田さんに算定の根拠を訊くと、「まあ、だいたいこんなもんなんじゃないでしょうか。少ない人で5万円ぐらい。多い人なら20万円ぐらいになるかもしれないけど。ちょっといい温泉に行って10万円ぐらい遣うと、なんか溜まった鬱が消えたなあと思うでしょう?」という。
この10万1000円を軸に、鬱のプラスとマイナスの攻防戦が繰り広げられる。焦げ付かない、すべらかなフライパンを使うことによって減っていく鬱が毎回500円分と主人公は算定。日に2度使ったとして、100日で10万円分の鬱が消える! とんだとらぬ狸の皮算用である。

「ランキングとか世論調査とか、いまはなんでも数字にしてしまいますよね。何位になったとか、メダルをいくつ取ったとか。でも、数値ではあらわせないものもあります」

なんでも貨幣に換算できる、というのが資本主義であるが、『バイ貝』が投げかけるのは、人生は等価交換できるのか、という深遠なる問題なのである。と言いつつも、「やっぱり鬱を減らそうと思ったら、カネを遣わないとならない。でもカネを遣ったら、またカネを稼がなければならない。カネを稼いだらまた鬱が溜まる。なんか、出口がないところに閉じこめられていますね」と著者は語る。

作品の最後は次のような言葉で結ばれている。
〈静かに静かに鬱が降り積もっていた。私はそれをもはや美しいと思うようになっていた〉
まるで安心立命の境地にいたったかのよう。主人公はもう鬱と貨幣による死のスパイラルを超越したのだろうか。
「とはいうものの、こんどはカマはカマでもご飯を炊く釜を…」と町田さんのバイ貝にまつわる話は続く。この先は『小説推理』の連載、「珍妙な峠」をごらんあれ。

取材・文=永江 朗

(ダ・ヴィンチ5月号「『バイ貝』 町田 康」より)