【凪良ゆうが描く人類滅亡前の世界】17歳、クラスメイトを殺した。/滅びの前のシャングリラ①

文芸・カルチャー

更新日:2021/1/21

『流浪の月』で2020年本屋大賞を受賞した作家・凪良ゆうさん最新作。
クラスのカースト上位男子からいじめを受ける17歳の友樹は、小学生の頃から同級生の雪絵に片想いをしている。
ところがある日、地球に小惑星が衝突して人類が滅亡することがわかり…。
滅亡を前に、絶望と混沌のさなかをどう“生きる”かを描く、傑作小説。

滅びの前のシャングリラ
『滅びの前のシャングリラ』(凪良ゆう/中央公論新社)

 江那友樹、十七歳、クラスメイトを殺した。

 死んでもまったく悲しくないやつだったが、自分の手で殺すことになるとは思わなかった。額や鼻の頭に汗が噴き出てくる。なんて未来だ。すごい世の中だ。もうなんでもありだ。

* * *

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 ホームルームが終わって担任が出ていくと、糸がほどけるように教室の空気がゆるむ。帰宅組はマックだカラオケだと放課後の予定を話し、隣の席の長田くんはウホッホーとバナナをもぎりに行くゴリラさながらの雄叫びを上げて教室を走り出ていく。長田くんは野球部のキャプテンで、甲子園出場に高校生活のすべてを捧げている。

 青春の輝きを撒き散らすクラスメイトを横目で見送り、帰宅組のぼくはいそいそと教科書を鞄にしまっていく。ぼくと運動部は縁がない。昔から運動全般が苦手だった。いや、小学校低学年くらいまではそうでもなかったっけ。走りもまあまあ速かったのに、そのあたりから体重が増えはじめ、同時に運動も苦手になっていったのだ。

 痩せたら運動神経も復活するだろうか。ぽっちゃり体型がほっそりになるだけでも、ぼくの日々は三割マシになるはずだ。仮想の明るい未来を想像しながら帰ろうとしたとき、

「江那ちゃーん、待って待って。掃除代わってー」

 背後から、井上がべったりと肩にもたれかかってきた。へらへら笑いながら、なあ頼むよと脇腹を拳で抉ってくる。痛い痛い痛い。

「終わったら連絡して」

 返事を待たずに井上は友人と連れ立って帰っていき、ぼくはうつむきがちに息を吐いた。肩にかけた鞄を机に戻し、教室の隅のロッカーから掃除用具を取り出す。

 真面目に掃除をしているのはぼくを含めて三人、だるそうにだが一応やっているのが五人、完全にサボっているのが二人。その比率をいつも不思議に思う。

 掃除当番は一クラスを男女混合四つに分けて回していく。適当に分けられたグループのはずなのに、しばらく経つとごく自然に、よくがんばる生徒、普通にこなす生徒、全力でサボる生徒という上・中・下の階層に分断されていくのだ。ちなみにサボる生徒が(上)である。

 奇妙なことに、どれだけ適当に分けられても、ぼくはいつの間にか下の階層に組み込まれている。ぽっちゃり体型で、勉強と運動は中の下、もしくは下の上。ひとつひとつは致命的ではないはずが、複数が合わさり『江那友樹』になった途端、なんらかの法則が発動し、異世界に飛ばされる漫画や小説の主人公みたいに、ぼくは下の階層へ飛ばされる。けれど飛ばされた異世界でも勇者や魔法使いになったりしない。ぼくは、どこまでもぼくだ。

 もがこうがあがこうが、神の摂理のように、ぼくは下の階層から抜け出せない。さらに恐ろしいのは、おそらくこの法則は社会に出ても継続されるだろうこと。

 ―ぼくは一生、搾取される羊として生きていくんだろうな。

 乳を搾られ、じっとおとなしく毛刈りをされ続けるだけの弱い生き物。けれど、と思う。ある日ふと、稲妻のような強く輝かしい天啓がぼくを貫いたりしないだろうか。

 ―ぼくはもしや、羊の皮をかぶった別の獣なのでは?

 ―このもこもこしたダサいウールを脱いで、変身するときがくるのでは?

 そのときがくれば、ぼくを幼く見せる八重歯は鋭い牙となり、短く切りそろえられた爪は凶暴な鉤形に曲がり、世界をうっすらと包む不条理という名のベールを引き裂くのではないか。唸りながら荒野を駆け抜ける、獣となったぼくを想像してみる。

 箒を使うたび、埃がきらきらと舞い上がる。窓から差し込む西日に浮かび上がる埃にまみれながら、激しく輝かしく燃える獣のぼくの冒険譚を繰っているうちに掃除は終わった。現実から切り離された物語に没頭することで屈辱から逃れるのが、ぼくのいつものやり方だ。

[掃除が終わりました]

 井上にLINEを送ると、すぐに返事がきた。

[駅前のカラオケにいるから買い物してきて]

 続いて飲み物やスナック菓子などが羅列される。ありがとうとか、おつかれさまというねぎらいの言葉は一切ない。連中は奉仕されることを当然と思っている。

[三階のいちばん奥の部屋。ダッシュ]

 言いたいことはたくさんあるが、ぼくはひとまずコンビニエンスストアへ走る。ふざけるな、馬鹿野郎と内心で罵ることもしない。投げつけた罵倒はいつでもブーメランで返ってきて、ぼくの胸にざっくり突き刺さる。その馬鹿野郎にへこへこしているぼく、という形で。

「失礼します」

 従業員かと自分にツッコみながら指定された奥の部屋に入った。流行りのJ-POPが襲いかかってくる。暗い室内には井上たちのグループと、他のクラスの女子も合わせて八人がいた。スクールカーストの中でも上位のグループだ。同じ制服なのに垢抜けていて、妙にだるそうで、笑い声が大きく、先生にもタメ口で話しかけ、教室後方の窓際の席を占有している。

 ―あ、藤森さん。

 つややかな長い黒髪、大きな目とふっくら薄桃の唇。スカートから伸びた細い足は膝から下がうんと長い。他の女子とはランクがちがうとひとめでわかる。上の中でも最上の女子だ。

 我が校一の美少女は、ぼくをちらっと一瞥しただけで、すぐに飲みかけのアイスティーのグラスに視線を戻した。ぼくは一秒でも早くここから逃げ出したくなる。

「頼まれたやつです」

 井上に買い物袋を渡すと、ごくろうごくろうと千円札を二枚渡された。お釣りを渡して帰ろうとすると、「江那くーん」と呼ばれた。おそるおそる振り返ると、笑顔の女子たちと目が合う。

「せっかくだし、なんか歌ってけば?」

「雪絵、なんかリクエストしなよ。Locoとか好きでしょ?」

 問われた藤森さんは、いい、とそっけなく答えた。

「じゃあ江那くんに似合うかっこいいの、あたしたちが選んであげるね」

 藤森さん以外の女子たちがはしゃいでリモコンを操作する。彼女たちはぼくを仲間だと認定しているわけではなく、ただ嗤いたいのだ。井上たちはにやにやしている。

「ほら、江那」

 井上がマイクを渡してくるが、流れだした音楽は聞き覚えがある程度で歌えない。おしゃれっぽいメロディに立ち尽くすぼくを、みんなが笑いをかみ殺して見ている。

「歌えないなら踊れば?」

 井上が王さまのようにソファにもたれる。それは提案ではなく命令だった。

 うつむいて自分のスニーカーの先を見た。これくらいのことはよくある。慣れている。けれど今日はつらい。なぜよりにもよって、これが藤森さんの目の前で行われるのだ。

 今までもスクールカースト内では下に組み込まれてきたが、地味は地味なりに平和な日々を送っていた。それが井上に目をつけられたあたりから、ゆるやかに下降していった。

 原因は特にない。井上の『イ』と江那の『エ』、ひとめで上位グループと下位グループだとわかるぼくたちの席が名簿順で前後したという、ただそれだけの運命のいたずらだ。

 ぼくにとっての不運は、井上にとってはパシリがすぐ後ろに控えているという幸運だった。毎日なにか頼まれて使われているうちに、他のクラスメイトにも軽んじられるようになり、二ヶ月ごとの席替えを待つまでもなく、江那くんイコール井上くんの下僕、として定着してしまった。

「江那」

 井上が尊大に顎をしゃくる。ここは上級民が集う国。下級民に刃向かう術はない。

 とりあえず手を上げた。みんながおっという顔をする。音楽に合わせて身体をぐにゃっとさせると、一斉に笑いが起きる。それ以上どうしていいのかわからず、とにかく海中のワカメのように揺らめき続けるぼくを、みんなが大笑いしながらスマートフォンで撮っている。屈辱に心をへし折られる前に、ぼくは心に蓋をして、いつものやり方に逃げ込む。

 まず、こいつら全員に呪いをかける。飲食店に入ったら必ず注文を忘れられる呪い、結婚式の日にものもらいができる呪い。カレーの日に炊飯器のスイッチを押し忘れる呪い。ぐにゃぐにゃくねりながら呪いに励んでいるうちに、曲は二番へ突入していく。

 この呪いにはコツがある。こいつらが馬鹿話をして歩いているときに車が突っ込んできて、身体がばらばらに飛び散って死にますようにとか、親が破産して借金取りに追われて一家離散しますように、なんてのはナシだ。どこかに一抹のユーモアを残さなければならない。

 本気の呪いは我に返ったときつらい。それをぼくは経験で学んでいる。人の死を願うほど自分はみじめな思いをしているという現実と、勧善懲悪なんて今どき物語の中にも滅多にないという現実と、呪いなんてこの世にないという当然の現実。現実三連発だ。

 そうしてぼくは今日も、絶望という名の嵐の海を、ユーモアという小舟に乗ってなんとか航海し続けている。遥か遠くに見える岸目指して懸命にオールを漕ぐ中、迂闊にも藤森さんと目が合ってしまった。彼女だけが笑っておらず、かすかに眉根を寄せている。

 笑ってもらえないピエロは、笑われるピエロの一万倍つらい。

 ユーモアの小舟が危うく転覆しかけ、とっさにワカメダンスの動きを大きくした瞬間、藤森さんが立ち上がった。びくっと動きを止めたぼくに目もくれず、藤森さんは不機嫌そうに部屋を出ていく。その藤森さんを追うように、井上もそそくさと出ていく。残されたみんなが意味深に目配せを交わし合い、ぼくはダンスを再開する。

 学校一の美少女である藤森さんは当然もてる。そして片っ端からふっていく。女子に人気のサッカー部イケメンエース先輩が告白にもたついたとき、「用事があるんで急いでください」と言い放ち、エース先輩をあっさり撃破。藤森さんの格上感は揺るぎないものとなった。

 今では藤森さんに告白しようという勇者は激減したが、井上はそれでも粘っているうちのひとりだ。それを知っているみんなの反応はそれぞれで、さりげなく廊下を気にしている男子は藤森さんに片想いをしていて、向かいの暗い表情の女子は井上に片想いをしているのだろう。その子の友人の女子は小声で励ましの言葉をかけていて、残りはにやにやしている野次馬。

 世界は序列で分断されているが、それぞれの階層内に渦巻く愛憎に変わりはない。ぼくはやる気のない海藻のようにゆらゆら揺れながら、それらをただ眺めている。真っ向から立ち向かわないと決意すれば、日々はやや楽に過ぎていく。

 曲が終わったあと、帰ろうとするぼくを引き止める者は誰もいなかった。

 だるい足取りで廊下を歩いていくと、階段の手前にいるふたりに出くわした。壁際に藤森さんを追い込む形で、井上が熱心に話しかけている。

「なあ、いいじゃん。雪絵の都合に合わせるからどっか行こ」

 呼び捨てなのが癪に障った。藤森さんは迷惑そうに目を逸らしている。完全脈なしの光景にぼくは心を強くした。ふたりに近づき、ごくりと唾を飲んで態勢を整える。

「井上くん」

 声をかけると、井上が振り返った。

「ああ、もう帰っていいよ。おつかれ」

 遊び飽きた野良犬を追い払うような口ぶりで、井上はすぐに藤森さんに向き合うが、ぼくは立ち去らなかった。鞄から財布を取り出し、百円玉を差し出した。

「さっきの買い物のお釣り、計算ちがいしてたから返すよ」

 井上は舌打ちをし、めんどくさそうにぼくの手のひらから硬貨をもぎ取った。

 その隙に藤森さんが井上の横をすり抜け、女子トイレに逃げていく。あっと井上がそちらを見たがもう遅い。井上は間抜け面をさらし、そのあとじろりとぼくをにらみつけた。いきなり脛を強く蹴られ、ぼくは痛みにしゃがみ込んだ。

「空気読めよ」

 短く吐き捨て、井上は部屋に戻っていく。ふん、馬鹿め。人に空気を読ませる前に、おまえは女心を読め。どう見ても嫌がられていたじゃないか。藤森さんはぼくを見るときと同じ目でおまえを見ていたぞ。藤森さんにとって、おまえはぼくと同レベルなのだ。

 ―全然嬉しくないけど。

 ねじれて何回転もしている卑下が混ざり合い、ふっと笑みを浮かべたときだ。

「なにがおかしいの?」

 びくっと顔を上げると、女子トイレのドアが半端に開いていた。藤森さんが顔を少しだけ出していて、ぼくは笑いを引っ込めた。自分ですら回収が難しい笑みの理由など説明できない。ぼくは立ち上がり、なんでもないです、とへこへこ頭を下げて階段に向かった。

「さっきは」

 小さなつぶやきに振り返ると、藤森さんが素早く顔を引っ込めた。

「ありがとう」

 早口のお礼と共に、バタンとドアが閉まる。

 あちこちの部屋から洩れてくるヘタクソな歌をBGMに、ぼくは立ち尽くした。

 礼を言われたくて助けたわけじゃない。けれど言われるとすごく嬉しい。

 帰りの電車に揺られながら、何度も記憶をリプレイした。思いがけず藤森さんと話ができた上にお礼まで言われた歓びと(あれを話と呼べるくらいには、ぼくと女子は断絶している)、いじめられている現場を藤森さんに目撃された羞恥がキメラ状に入り組んで胸が激しく軋んでいる。

 ―あんな近くで見たの、いつぶりだろう。

 家の最寄り駅で電車を降り、階段とは逆方向にホームを歩いていく。

 ホームの端にあるベンチに腰を下ろすと、途切れた屋根から差し込む西日に目を射られる。眩しさに目を閉じ、ここで藤森さんと話をしたときのことを思い出した。

<第2回に続く>