高齢ドライバーの事故の裏にあった予想外の事実――ジャーナリストの独自取材によって見えてきたものは? 『震える天秤』

文芸・カルチャー

公開日:2022/8/30

震える天秤
震える天秤(角川文庫)』(染井為人/KADOKAWA)

 高齢化が進む日本で大きな問題になっている高齢ドライバーによる交通事故。加齢により反射神経や認知機能など車の運転に必要な能力が低下しているにもかかわらず、それまでのように運転することが万が一の事故につながってしまう。地域によっては車に乗らなければ生活ができないことも多く、いくら家族が免許返納を勧めても、当事者である高齢者自身が「自分はまだ大丈夫」と聞く耳を持たず、なかなか対策が進まない悩ましい問題だ。

 中でも多いのはアクセルとブレーキの踏み間違え事故だろう。その結果、店舗や歩道に突っ込んだとしてニュースでもたびたび報じられており、多くの人が高齢ドライバーの事故として最初にイメージするかもしれない。社会派サスペンスで定評のある染井為人さんの『震える天秤(角川文庫)』(KADOKAWA)も、そんな高齢ドライバーによる事故がテーマだ。核となるのは「認知症の疑いのある老人がコンビニに突っ込み、中にいた従業員を轢き殺してしまう」というものであり、被害者が死亡するという事態の深刻さはあるものの、事故のタイプとしては類型化されやすいものだ。だがそうした事故を「読ませる」エンターテインメントにしてしまうのが作者の腕の見せ所。悪いやつしか出てこないと話題の『悪い夏(角川文庫)』(KADOKAWA)で横溝正史ミステリ大賞優秀賞を受賞した染井さんの描き出す世界は、予想もしない展開から目が離せない。

 福井県のコンビニ・FY(フォーユー)マートで高齢ドライバーによる死亡事故が発生した。86歳男性の運転する軽トラックが店舗に突っ込み、そのコンビニの店長を轢き殺したのだ。アクセルとブレーキを踏み間違えたという加害者には認知症の疑いがあり、警察は責任能力を調査中――事故の報を受け、隔週誌『ホリディ』から「高齢者事故」の取材を依頼されたフリージャーナリストの俊藤律は福井へと向かう。事故発生から3日後でもビニールシートに覆われ商品が散乱したままの現場。息子を失ったことより「フランチャイズ元の補償が足りない」と金に執着する強欲な被害者の義父。その義父に日頃から悩まされていたフランチャイズ側の担当者。高齢者事故を担当する行政の見解。決して評判がよくなかった死亡した被害者…。関係者に取材を重ねても、いまひとつ記事の核を絞りきれない律は、加害者の住んでいた村にも取材に向かう。数年前の水害で大きな被害を受けたその村は「鎖国」していると噂されるほど閉鎖的な土地であり住民の結束は固い。認知症を患っていた加害者を村のみんなで支えていた、気がついたら車検切れの隣家の軽トラで出かけてしまっていた…一様にそう事故の事情を語る村人たちに、なぜか「この村はおかしい。皆で何かを隠している」と違和感を覚えた律。独自取材を続けた先に見えてきたのは――。

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 ジャーナリストとして時に狡猾に、時に大胆につきすすむ人間臭い主人公・律、クズっぷり全開の被害者やその親、律を陰ながら支える元妻、ノリ重視で若干いい加減な編集長など登場人物も魅力的な上に、地方のなんともいえない雑な感じや、閉鎖的な村が持つ圧など情景描写もリアルで違和感なく物語世界に入っていける。その上で「高齢者と車」「地方と車」など今日的な社会テーマをエンターテインメントとして読ませ、なおかつ考えさせる作者の手腕はさすがだ。

 ちなみに本書の単行本が刊行されたのは2019年8月。思い返せば、あの池袋での高齢者による死亡事故が起きたのは2019年の春であり、著者がいかに社会問題にホットに切り込んでいたのか、その作家としての姿勢がわかろうというものだ。この夏、いよいよ文庫化。この機会にぜひ一読をおすすめしたい。

文=荒井理恵

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