匿名の歌姫は理想の人物か、それとも――。人気YouTuber“ぶんけい”こと柿原朋哉が、匿名時代の痛みを痛烈に描き出す

文芸・カルチャー

公開日:2022/9/9

匿名
匿名』(柿原朋哉/講談社)

「匿名であること」は、ぼくらの社会で非常に身近になった。名前や顔を隠し活動するアーティストが人気を集め、SNS上では正体を伏せて交流する人が多い。相手のことがわからない。それは相手にこちらの希望や理想を投影することを可能にしたとも言える。しかし、本当にそれだけだろうか――。

 そんな匿名時代をテーマにした小説が登場した。タイトルはズバリ『匿名』(講談社)。その書き手は、2人組YouTuber「パオパオチャンネル」として絶大な人気を集めていた“ぶんけい”こと、柿原朋哉さんだ。今年4月にパオパオチャンネルとしての活動を終了した柿原さんは、それ以前から映像作家としても活躍していた。2020年5月には初のエッセイ『腹黒のジレンマ』(KADOKAWA)を上梓するなど、多方面で才能を開花させている。

 そんな柿原さんが書き上げた初の小説『匿名』は、ふたりの視点人物による語りが入れ替わりながら進んでいく。そのひとりは越智友香。都会に馴染めず、渋谷にあるビルの屋上から投身自殺をしようとするほど追い詰められている。しかし、寸前で彼女を救ったのは、街頭ビジョンから偶然流れた、ひとりのアーティストの歌声だった。儚げで悲しく、けれど慈愛に満ちた歌声。それの持ち主がもうひとりの主人公である、Fだった。

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 不思議な感覚とともに死ぬことを諦めた友香は、Fにハマっていく。SNS上のファンコミュニティに参加し、そこで出会った熱狂的なファンとともにFを追いかける。次第に友香は、Fへの思いを燃え上がらせていく。

 Fに会いたい。直接会って、感謝を伝えたい――。

 交互に語られるFのパートでは、匿名で活動する彼女が少しずつ上り詰めていくさまが描かれる。歌うことがすべてであるFにとって、アーティストとして成功していくのは最上の幸福のようにも見える。事実、そうなのだろう。彼女は忌々しい過去を抱えており、だからこそ、音楽にすべてを捧げているのだ。

 Fの歌声に出合って、前向きに生きられるようになった友香。そして歌声が認められたことで、一歩ずつ上り詰めていくF。交互に描かれるふたりの人生は、ポジティブな方向へ転がっていく。

 しかし――。

 物語後半で起こる衝撃的な出来事によって、ふたりの人生は急転直下を迎える。特に友香は再び死にたいくらいに追い詰められてしまうのだ。友香にとっては、まさに生きていることが地獄のようなもの。その心情描写には、小説家としての柿原さんの筆力が滲む。

 一体、友香の身になにが起こるのか。それは本作で確かめてもらいたい。

「匿名である」とは不思議なことだ。それは一見、自由の象徴のようにも思える。誰も知らない自分になる。あるいは正体不明な相手に、理想を重ね、思いを寄せる。いずれも匿名であるからこそ成り立つことである。

 ただし、コインの裏表のように、そこにはそれ相応のリスクも存在する。柿原さんが綴った本作は、そんな匿名時代に警鐘を鳴らすようなものでもある。そしてそれはそのまま、ぼくら読者の心を深く抉る。

 しかしながら、最後には僅かな希望も見える。匿名の存在にすがり、挙げ句、追い込まれた友香がたどり着く先。それを目にしたとき、読者の胸中には小さな光が灯るだろう。良い面も悪い面も併せ持つ、この匿名時代。その光と影を描き切った『匿名』は、間違いなくぼくら読者の心を大きく揺さぶる1作だ。

文=五十嵐 大

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