エッセイのようでいて実は小説。38歳小説家の僕は、どこで人生をしくじったのか?

文芸・カルチャー

公開日:2022/9/19

青春とシリアルキラー
青春とシリアルキラー』(佐藤友哉/集英社)

「この本は、なんだかわからないうちに人生をしくじった僕と、その周辺について書いたものである」——佐藤友哉氏の『青春とシリアルキラー』(集英社)の帯にはそう記されている。佐藤氏は07年の『灰色のダイエットコカコーラ』(講談社)でも、若者の懊悩を真正面から描いていたが、この新刊は趣が異なる。38歳の小説家が主人公だから、一瞬、その姿は佐藤氏そのものにも読めるが、あくまでも本作はフィクションである。佐藤氏自身が本書の中でそう述べているのだから。

 主人公は38歳の小説家。仕事はある程度世間に認められ、結婚しており、幼い子どももいる。妻が働きに出ており、著者は主夫として子どもの世話をする毎日だ。料理も作るし、家事炊事全般を受け持っている。自分と一緒に遊んでくれる子どもにとって、彼はいいお父さんと映っていたはずだ。

 一見、幸せな家庭を築いた主人公はしかし、ふとした瞬間に、「これは本当に自分が望んだ理想なのか?」と急に我に返って考える。主夫とはいえ、自分はろくに仕事もせずにふらふらしている社会不適合者ではないのか? と。主人公は何を欲していて、どうすれば心が満たされるのか。それは彼本人も分かっていない。地位や名誉や金が欲しいということではないし、妻や子どもが自分にとってのすべてというわけでもないのだ。

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 この小説の主人公は、既に青春をやり直せる年齢(38歳)を過ぎてしまったと、絶望感を覚えているようだ。「38歳」という主人公の年齢は繰り返し作中に出てくるが、これはネガティブな意味合いで使われている。いやいや38歳はまだ若いという声もあるだろうが、38歳をある種のタイムリミットとして措定しているのは間違いない。

 主人公は「バリバリの青春人間」と描かれているが、これを読んだ人はもしかしたら「青春ゾンビ」という言葉を連想したかもしれない。「青春ゾンビ」を使いだしたのは、歌人の穂村弘氏であり、実際に本書にも穂村氏の名前が出てくる。穂村氏もまた、暗かった青春時代を回顧し、巻き戻せない時間について想いを馳せ、自分がいかに生きづらかったかを著書で記している。短歌関連の本でいくつも賞を取っており、女性ファンも多い穂村氏だが、その悩みは主人公それとさほど大差がないのである。

 行間から「こんなはずじゃなかったのに」という著者の心の声が聞こえる。その姿にシンパシーを覚える人も多いと思う。幸福とは、必ずしも周囲からの評価や成功のみによって担保されるものではない。自己評価の基準は自分が設定するものである。いや、少なくとも小説の主人公はそうだと言うべきか。

 とりわけ本書で目を惹くのが、『ジョーカー』という映画を巡る考察。『ジョーカー』では、平々凡々な日々を送っていた善良な男性が、理不尽な困難にぶちあたって、世間から追いだされる。そして、不遇をかこってきた長年の怨念がトリガーになって、最終的には凶行に至るという物語だ。この映画について主人公は、「明らかに現代社会への批判だろう」と述べる。グローバリズムの急速な浸透により、多くの国が経済的/社会的弱者への援助をストップしたことが失敗の始まりだった、というのである。

 なお著者は、小説として書いた本書が、エッセイやコラムとして受容されがちなことに対して、猛烈に反発している。確かに著者の実体験を書くと、それだけでリアリティや説得力が増すところは、あるにはある。ただ、本書は実体験が基にはなっているものの、話を盛っているところも多く、また完全なフィクションも織り込まれている。著者自身がそう明言しているのだ。

「幸福とは幸福を探すことである」と言ったのはフランスの小説家、ジュール・ルナアルだが、この言葉こそ主人公が辿ってきた、曲がりくねった道程を指すものではないか。その先には何が待ち受けているのだろう。幸福と不幸の境目はどこにあり、自分とシリアルキラーの決定的な違いはなんだろう――そんなことを省察する契機にもなる本である。

文=土佐有明

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