誰もが悩む「友だち」という関係。友人ができたら「もうけもの」と思う程度が健全という考え方

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公開日:2022/11/28

「友だち」から自由になる
「友だち」から自由になる』(石田光規/光文社)

 いわゆる「友だち」との付き合いに、悩む人は少なくない。かくいう筆者もその一人で、少し前にとあるコミュニティでの関係に悩んだ。悶々とする日々の中で、ふと手に取った書籍が『「友だち」から自由になる』(石田光規/光文社)だった。

 本書は、古代ギリシャから現代までの「友だち」の定義をたどりながら、歴史や社会的背景をふまえた、現代の「友だち」像を浮き彫りにする一冊である。もし今、友人関係に悩んでいるなら読んでいただきたい。どこか、心がスッと楽になる感覚が生まれてくるだろう。

「友だち」は「素晴らしいもの」から変化

 冒頭で著者の石田光規氏は「友だちづくりの指南書ではない。むしろ、友だちをつくることを過剰に求める社会に、一石を投じるもの」と本書の意義を述べている。しかし、けっして読者の私たちを突き放しているわけではない。冷静かつ客観的な考察を進めながら、現代の「友だち」像を提示する。

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 そもそも「友だち」とは何か。その定義は古代ギリシャの時代から提示されており、当時は「友人・友だち・友情は『素晴らしいもの』と描写」されていたようだ。しかし、時を経て定義は変化してきた。

 現代は「同じクラスなどたまたま居合わせた人に『友だち』という枠を当てはめ、その枠を維持するよう行動しなければならない」という時代になった。こうした社会での人間関係は「あらかじめ友人・友だちという枠を当てはめ、そこに合うように関係の中身を調整することで成り立っている」と述べる著者は、現代の「友だち」同士の関係を「形から入る友人」と定義付けている。

常に「つながる」時代ならではの「不満感」や「不信感」

 現代の「友だち」像を考えるにあたり、避けては通れない話題がコミュニケーションツールの変化だ。大きく変わったのは「携帯電話」の登場で、以降は「端末を介して身の回りにいない友だちとつねにつながる『常時接続の時代』」を迎えた。

 今や、誰もが「個人を識別する番号(携帯番号など)やID(LINE IDなど)」を持つ時代になった。紐付けられた番号やIDで「意中の人」へたやすくアクセスできるようになった一方で、個人間のコミュニケーションにおける「記録」は「承認の目安」としても機能するようになった。

 例えば、LINEの「既読」は分かりやすい。メッセージの送信側は、基本的に受け取った相手に読んでもらえると思って発信する。しかし、「既読」が付かない場合や、付いたとしても返信がない場合には、送信側は「不満感、不信感」を募らせてしまう。

 相手とつねに「つながること」が求められる現代では「目の前にいない誰かとつながらない事態が生じると、その状況に対して強い不満や不安を抱くようになる」と著者は述べる。コミュニケーションツール自体ではなく、それを介した生身の人間同士の関係こそが「友だち」だと気付かされる指摘だ。

友人ができたら「もうけもの」と思うほどが健全

 冒頭で「ともだちひゃくにん できるかな」の歌詞でおなじみの「一年生になったら」を引用していたのも、筆者が本書に大きく惹かれた理由だった。幼少期に限らず、大人になってからも「友だち」の大切さを聞く機会は多い。「友だち」を大切に思うことが悪いわけではないが、それが果たしていいことかと疑問も浮かんでくる。

 そもそも「『友だち一〇〇人』などそうそうできないし、『ずっと友だち』でいられることもなかなかない」と言い切る著者は、潔い。ただ、けっして「友だち」の存在を否定しているわけではない。現代は「つながり」を作れる場所がいくつもあり、「仲良くなってゆく、あるいは、仲のよい友人ができたらもうけもの」といった程度の軽い気持ちで参加してみるのが「ちょうどよい」と主張する。

 著者は、読者に向けて「友だちといてもさびしさを感じる。友だちをつくろうと思うと緊張する。本書が、そんな悩みを解消する一助になれば」とメッセージを届けている。実際、筆者も本書に救われた一人だ。「友だち」ができない、上手に関係を築けないとふさぎ込んでいる人たちにこそおすすめしたい。

文=カネコシュウヘイ

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