破壊と否定に根を張る「ダダ」の言葉はおもしろい
公開日:2012/12/22
『ウルトラマン』に登場した二足歩行怪獣で、「ダッダァ~」と鳴くやつがいた。その名も「ダダ」。「ダッダァ~」と鳴く以外にどんな技を披露したのかまるで記憶になく、もしかしたらただウルトラマンに殴られるためにだけ現れたミソッカス怪獣だったのかもしれないが、実相寺昭雄監督の「怪獣可愛いや」スタンスと真逆で、それでは「怪獣虐待」の疑いもあるのではないだろうか。
それはそれとして、その怪獣の「ダダ」は前世紀初頭にヨーロッパを中心に忽然として起こった芸術思想・運動の「ダダイスム」、略して「ダダ」からとったのだという。規制の秩序や常識に対する「ノン」を根底に持ち、否定・攻撃・破壊を目指すんである。わかりやすくいうと、日常的な感じ方や、ものの見え方、物事の組み立てをぶちこわし、「わっけの分からねえこと」をやるのである。
中原中也は「ダダ」の一派である。いくつかの詩をのぞいては、何が書いてあんのかさっぱりのみ込めない。詩集「山羊の歌」の最初の一行はこうだ。
トタンがセンベイ食べて
春の日の夕暮れは静かです
トタンがセンベイ食べ始めたら、とても静かにしていられないと思う。トランスフォーマーの世界である。
だから、この本に集められた「山羊の歌」「在りし日の歌」「末黒野」「未刊詩編」はある読み方をすると、かなり笑える。そして笑ってはいけないということは決してない。おもしろいなあと思って読めばいい。何が何だか分からないや、と困惑し嫌になってページを閉じるよりよほどましだ。
しかし、創作というものの、あるいは詩作というものの底流から振り仰いでみてみるとき、この本に詰まっているものはずっと大きい。
私たちはふだんものを考える。あるいは感じる。そのとき言葉をあてがって情感や思惑を確かめるのだが、時としてあまりに大きな、あまりに微細な情動にぶつかって言葉では表せないことがある。それを無理に言葉で表そうとすると、言葉はゆがむ。当たり前の表現では足りなくなるからだ。詩はそうやって生まれたのではないか。
中原の詩に触れるとき、意味は不明なまま、言葉と言葉が響き合いながらその奥に、何か憂いと鬱屈と哀しみとやるせなさをふくんだ腐る寸前の果実のように匂やかなもののあるのがはっきりと分かる。
中原の詩の多くが死したものに対する祈りであることと無関係ではないだろう。
問題の作品
超有名な一作
文字で書かれている以上のことがここには豊穣に描かれている
優しい言葉でメルヘンチックな情景が書かれているにもかかわらず、誰かが死んでいることが直感的に読み手の心にやってくる
4の続き