新作長編へつながっていく期待も? 村上春樹の短編集『一人称単数』が待望の文庫化!

文芸・カルチャー

公開日:2023/2/8

一人称単数
一人称単数』(村上春樹/文藝春秋)

 村上春樹氏の最新短編集『一人称単数』(文藝春秋)が待望の文庫となった。収録されているのは「石のまくらに」「クリーム」「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」「ヤクルト・スワローズ詩集」「謝肉祭(Carnaval)」「品川猿の告白」「一人称単数」の8編。

 物語はタイトル通り「僕」「ぼく」「私」という一人称単数の視点で書かれており、それぞれがとても個人的なエピソードをもとにしているので、「作者自身に起こったことなのか?」と錯覚するような物語ばかりだ(村上本人は本書に関するインタビューで「自伝的に見せて、それらしいフィクションを自由にこしらえていくというのが、僕のそもそものプラン」と語っている)。

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 そして収められた作品には、過去にあった不可思議な出来事が今の主人公に戻ってくる、という共通点もある。村上氏は2012年、「国際交流基金賞」を受賞した際、こんなメッセージを出している。

物語の目的とは、今ここにある現実とは離れたところにある現実からものごとを運んできて、それによって、今ここにある現実をよりリアルに、より鮮やかに再現することにあります。

 各話の過去の出来事は、もしそれがそのときに起こらなかったとしても、おそらく主人公の人生にそれほど大きな影響を与えることではない。しかし失われたと思っていたささやかな出来事が不意に頭をもたげたことで、ざわざわと心を波立て、その出来事は本当に起こったことなのか、そして今の自分にとってどんな意味があるのかを問いかけてくる。

 本書が単行本として刊行された2020年は新型コロナウイルスが世界中で流行し始め、世界が突然変わってしまった年だった。人々は皆マスクで顔を覆い、不要不急の外出を控える要請によって家へ閉じこもり、会社や施設、店が閉じられ、街からは人影が消え、人との接触ができなくなり、あちこちに間仕切りができて、先行きのわからない不安を抱えながら毎日を過ごしていた。そんな時に、過去の出来事を思い出させるような不思議な内容の本作はいくらか心を落ち着かせてくれた。

 しかし最後に収められた短編「一人称単数」だけが感触のまったく違う異質な物語として提示され、あるときから瞬時に世界が変わってしまう恐怖が描かれていた。しかし小説での描写が何だったのかはまったくわからないまま、ザラザラとした不快な読後感を残し、読者は完全に放り出されてしまった。

 これはいったいどういうことなのだろう、とずっと考えていたのだが、2017年2月刊行の『騎士団長殺し』(新潮社)以来6年ぶりとなる書き下ろしの新作長編小説を2023年4月13日に刊行するという発表があった。村上氏はこれまで過去の自身の作品がインスピレーションとなり、長編小説となることが多い作家だ。例えば短編「蛍」は『ノルウェイの森』(講談社)へ、短編「ねじまき鳥と火曜日の女たち」は三部作の大長編『ねじまき鳥クロニクル』(新潮社)へとストレッチされている(個人的には短編集『女のいない男たち』に収められている「木野」で描かれた世界が、『騎士団長殺し』に通底しているように感じている)。それだけに、もしかするとこの『一人称単数』の中の作品が変奏し、新たな物語になるのかもしれないという期待もある。本書を読み込み、新作長編を楽しみに待ちたい。

文=成田全(ナリタタモツ)

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