不条理への「なぜだ!」という叫びがダイナミックに浄化されていく
公開日:2012/12/30
ひさしぶりに高校の卒業写真集を眺めてほのかに思いを寄せていた人のことを思い出していた日暮れがた、帰宅の電車の中でバッタリその想い人に出くわす。そういう奇妙なことが私たちの人生にはある。心理学者のユングはそうした奇遇をシンクロニシティと名づけ、生きるうえでの「意味のある偶然」だといっている。私たちの生を転換させる可能性のある大きなきっかけだというのだ。
しかし「偶然」ではなくそれを「運命」と呼ぶ人もいる。何かひとつ糸のようなものが、あなたとその人の間をもつれながら結びつけ、必然として2人をつなぎ合わせたのだと。
「偶然」と「運命」はどう違うのか。
「偶然」は、まったくでたらめに無責任に起こる。ただ単に、あなたの人体とその人の人体が物理的に行き会っただけだ。卒業写真を開いたこともその邂逅となんの関係もない。
「運命」には、誰かの、あるいは何かの意志が働いている。神か、先祖の霊か、宇宙の思念か、とにかく2人を操っているものがいるという考え方だ。出会うべくして2人は同じ電車に、それも同じ車両のごく近くに乗り合わせた。これで2人が恋に落ちるなら、それはそれで慶賀のいたりなのだが、「運命」というやつは災厄となって人間の上に襲いかかることもある。道を歩いていて目の前の人が車にはねられ自分は紙一重で命を拾う。その逆ももちろんある。
そのとき人は「なぜだ!」と叫ばずにいられない。なぜ俺だけが死ななければならないのか! この「なぜだ」は「偶然」という答えの前では解決がつかない。「運命」という名前の糸を操った神や天や宇宙を想定し、そうした絶対者対する糾弾としなければ納得できないはずだ。
人は神を崇拝の対象として発明したが、同時に過酷な運命への「NON!」を訴える存在としても必要としたのである。
ギリシア悲劇は、紀元前5~6世紀にアテナイにおいて競作の形で上演された演劇である。その総数はおびただしかったと推測されるのだが、多くは散逸され現在読むことのできるのは、ソポクレス、エウリピデス、アイスキュロスの三者による数十編のみである。これらすべてはギリシア神話に材を取り、人間に苛烈な運命と呪いを与える神々への「なぜだ!」を崇高にうたいあげている。人は神よりもはるかに卑小で、無力で、芥子粒のような生き物であるにもかかわらず、絶対にかなわない神に「なぜだ!」と声を上げる。そこにこそ人間の尊厳がある、そうギリシア悲劇は語る。
ソポクレスの「オイディプス王」は、ギリシア悲劇の代表作ともいわれる傑作だ。テーバイの都に疫病がはやり、オイディプス王はその理由を神にたずねさせる。託宣(神のお告げ)は先王を殺し自分の母と交わったものがいるからだという。ミステリーよろしく、ここでシーク&ファインドが試行されると、犯人はオイディプス自身だということが判明する。絶望のあまりみずからの目をえぐるオイディプスだったが、元はといえば先王に息子に殺され王妃も奪われるという神からの託宣があったからなのだ。
この矛盾、この不条理をどうとくか。しかしとけないまま、本書を読むことでしっかりとした浄化が私たちにやってくる。
最初に「あらすじ」が書いてあるので読みやすくなっている
神の託宣が告げられる
コロスという説明役が物語を進めていく