とりとめない記憶を艶めかしくさえある長文でつづる芥川賞作

小説・エッセイ

更新日:2013/2/26

abさんご

ハード : Windows/Mac/iPhone/iPad/Android/Reader 発売元 : 文藝春秋
ジャンル:小説・エッセイ 購入元:紀伊國屋書店Kinoppy
著者名:黒田夏子 価格:925円

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タイトルが魅力的だ。「海老珊瑚」。じゃないと思う、少なくともそんな自堕落な洒落では。『abさんご』。なんのことだかよく分からない。分からないけどなにかの空気がある。だいたいタイトルなんかどうでもいいものだ。別に内容を代弁してなくてもいい。とりあえずついていればそれでいいのだ。とりあえずついていて、雰囲気があれば。どこか人を誘い込む文字列のつらなり。ものを書くとき一番大切なタイトルのルールはそれだ。むかし古今亭志ん生が「蛇が怪我してへービーチーデー」という枕をふっていたが、それはまあ今は関係ない。

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それ以外にそとみからこの小説が特徴的なのは、カタカナも固有名詞も<、><。>も出てこない点だ。<.>と<,>で処理されている。これはなかなか心地よい。

だいたいカタカナというのは文章をこわばらせる。ざらっとした手触りに落としていく。日本語はもっとなめらかな構造物であるんではないか。なめらかで肉感的な語りが成功しているのがなによりも艶めかしい本書のたたずまいだ。

固有名詞も世界をくっきりさせすぎてこの小説には似合わない。もっといえば、固有名詞で物や人物を具体的なイメージに定着させず、どこかおぼろな影のように描写することで、記憶を語るにふさわしい曖昧で込み入った風情を巧妙に漂わせてみせる仕組みになっていて美しい。

記憶というのは、あるいは思い出というのは、私たちの頭の中ですっきりと整理されているかに見えてそうではない。3歳の時の記憶が4歳のそれに順序正しくつながっているなんてことはあり得ない。たとえば6歳の時の悲しい思い出は、その悲しさというよすがで17歳の失恋と地続きになっているはずだ。

この本の語り手が、時系列をほとんど無視した形で幼少時を思い出しているのも、そうした追憶のカオスを、めざましく再現させたといってよい。

よく引用される部分を私も引用すれば、
「天からふるものをしのぐどうぐが,ぜんぶひらいたのやなかばひらいたのや色がらさまざまにつるしかざられて,つぎつぎと打ちあげられては中ぞらにこごりかたまってしまった花火のようといえば後年の見とりかたで,」

「天からふるもの」とは雨であり、「しのぐどうぐ」は傘のことである。雨とか傘と書かないことでなにが生まれているのかといえば、雨や傘をそうとは呼べない語り手のいるあやふやな世界の姿であるといってよいか。それは幼さにへばりついたある不安のとぐろであり、未分化な身の回りのとりとめのない手触りである。また最後のところで「後年のことで」と付け加えることで時間をグイッとねじ曲げている離れ業の蠱惑ぶりを分かってもらえるだろうか。

あえてあらすじを書かないのは、もちろん想起にあらすじはないからである。

あえて読書の手引きとすれば、幼少時に父と母を失い、もうひとりの人のもとで育った幼児の思い返しの語りがねじれながらたわみながらはき出されていく。

確かに読みにくいというなら読みにくい。けれどその読みにくさは通常の本を読む早さで読もうとするとき発生する摩擦みたいなもので、今この本にむかいながら、私たちは「ゆっくり読むこと」を求められている。ゆっくりゆっくり読むことで立ち現れてくる風景こそ本書の醍醐味である。

読んでも「何が何だか分からない」可能性も充分にある。しかしその分からなさのよりどころははっきりと分かるのではないだろうか。

青年時代にロブ・グリエだのサロートだのベケットだの、野蛮としかいいようのないヌーヴォーロマンの野郎たちに横通りされた私には、へっちゃらであったが。


こうなったかもしれない記憶から語り出す

幼い頃に父を亡くしているらしい

母子2人の家庭にしばらくすると家政婦がやってきたらしい

巻き貝状の書斎というのはちょっとステキ