完璧に見える推理を次から次へと反証するぜいたくきわまりない読み心地
更新日:2012/3/7
アンソニー・バークリーの「毒入りチョコレート事件」は、推理小説です。そう書かなくとも、まさかこれを恋愛小説だと思う人はいないとは思いますが。このタイトルでめくるめくラブストーリーを書いた人がいたら、自分の恋愛観について反省した方がいいでしょう。
推理小説には、とても怜悧で、巧緻で、舌を巻くようなアイデアの盛り込まれた傑作がいくつも存在します。でもバークリーの作品は、そういうハードルをすべてクリアした上で、さらにどこかしゃれた味わいが漂うのです。それはたぶん、登場する人物のキャラクターが馥郁と描かれているからではないでしょうか。なんかこう、あつみのない紙の上の人たちなのに、背中の丸みをもっているようなというか。
さて中身です。
チョコレートの試作品を食べたベンディックス夫妻の、婦人は死亡し、ベンディックス氏はなんとか命を取り留めました。毒が入っていたのです。でも問題のチョコレートは、知人のペンファーザー卿へ送られたもので、ベンディックス氏はもらい受けただけでした。警察の捜査は難航し、迷宮入り寸前となります。ところで、ここにロジャー・シェリンガムという犯罪に興味を持つ青年がいます。彼の創設した「犯罪研究会」の面々が、この難事件を解決してやろうと、一晩にひとりずつ知恵を絞った推理を披露していくというのが、本編のメインストーリーなのです。
このミステリーの比類ない面白さがどこにあるかといえば、毎晩毎晩どこから見ても完璧と思われる推理がひとりひとりの口から語られて、それがまた完全無欠といえる反証によって見事に崩れ去っていく、その奇蹟のようなプロットにあるのですね。壮麗な伽藍をくみ上げた堅牢な石組みが、またたく間に崩されそしてまた積み上げられ勇壮な宮殿が出現する、しかしそれもまたすぐに…。容疑者へのネチネチした聞き取りも、突然現れる新しい証拠も、驚きに満ちた第二の殺人もありませんが、純粋な論理と論理の対決という推理小説ならではの美しい格闘が読むものを魅了するのです。これと同じ趣向は、バークリーの親友であるディクスン・カーが「九つの答え」という長編で試みていますね。こちらもまた大傑作ですが、それはまた別のところで書きましょう。
あくことなく繰り返されたあとで、もうあらゆる推理は出つくしたと感じるとき、悪魔でも思いつかないんじゃないかという究極の推理が事件を解決することになります。このとき味わう快感こそ、推理小説を読む喜びのエキス以外のなにものでもないと、実感する長編なんであります。
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