誰が“美醜”を決めるのか?

2013/12/13

美しい都市・醜い都市 ― 現代景観論

ハード : Windows/Mac/iPhone/iPad/Android 発売元 : 中央公論新社
ジャンル:教養・人文・歴史 購入元:紀伊國屋書店Kinoppy
著者名:五十嵐太郎 価格:702円

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マイケル・ケンナの『Retrospective』という写真集が好きだ。人のいない風景ばかりを、たぶん赤外線写真でけぶったような荒い粒子の中に切り取った、モノクロの、幻想的な写真集だ。人のいるはずのところから人を取り去ると、風景は「表現」になってしまうことがよく分かる。

内閣の都市再生戦略チームから提出された「悪い景観一00」を批判する形で本書の論は進められる。草や木や風の通る空間を美しいと感じているらしいチームにとって、たとえば日本橋の上を走る高架が「悪い景観」のサンプルとして数え上げられるのだが、著者はこれに反対をする。

あの景観は本当に醜いのか。未来的な風景として美しいと観るものもいるのではないか。もし「悪い」とか「美しい」という判断を景観に持ち込むなら、その基準はどこにあるのか。たとえば都市全体を再開発するべく一定の基準で構築し直すということになれば、それはファシズムへの一歩へと踏み込みやすいだろう。

現に著者の勤める建築課で、「醜い景観」と「美しい景観」の写真を撮らせたところ、思いもかけない建物を「美しい」と判断した者が少なからずいたという。

町は人が住んでいてこその町だ、とわたしは思う。生活の伸び縮みにあわせて、だから町は姿を変えていく。玄関先に並べられた異様な数の鉢植えも、商店街のうらぶれたガラス戸も、駅前に渦巻く放置自転車も、至る所に貼られたおびただしいチラシも、そうやって町はいつも膨らんだりしぼんだりし続けているのだ。

人が生活している限り、町に醜いも美しいもない。暮らしやすいか暮らしにくいかがあるだけだ。人の暮らしを除いたら、町はただの「表現」になってしまう。そう感じた。


均整のとれた町が美しい景観か

国土庁はまず「悪い景観」のリストをあげた

学生たちのあげた美しい建築

醜い建築