隣の家の中を覗きたい女が解き明かす家の歴史とは【芥川賞受賞作】

小説・エッセイ

2014/8/17

春の庭

ハード : iPhone/iPad/Android 発売元 : 文藝春秋
ジャンル:小説・エッセイ 購入元:Kindleストア
著者名:柴崎友香 価格:※ストアでご確認ください

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 昔住んでいた部屋に今は別の人が暮らしているなんて想像できない気がしていたが、ベランダに干された知らない誰かの洗濯物を見たとき、ああ、別に何も寂しがる必要なんてないのだと思った。家は住人とともにあらゆる形に成長していく生き物なのだろう。住む人が変われば家も生まれ変わる。もしかしたら、家を知ることは住人を知ることなのかもしれない。そんな家がひしめく街を歩けば、ワクワクさせられるかもしれない。

 柴崎友香著『春の庭』は第151回芥川賞を受賞した話題作だ。ある家の秘密を覗きみようと試みた登場人物たちを描くこの作品は何気ない日常をみずみずしく切り取っている。街にはこんなにも心躍る世界が広がっていることを人はいつから忘れてしまったのだろう。

 主人公は離婚したばかりの元美容師・太郎。彼は世田谷にある取り壊し寸前の古いアパートに越してきたが、ある日、同じアパートに住む西が、塀を乗り越え、隣の家の敷地に侵入しようとしているのを目撃する。隣の家の中がどうしても気になると語る西。そんな彼女に影響され、いつの間にか太郎も隣の家が気になりはじめてしまう。

「毎日生活する場所にちょっとした楽しみがあるのは良いことだ。自分は運のいい人間なんだと子どもの頃から思っている。」

 西の前向きさはなんと愛らしいのだろうか。かつて写真集が撮影された青い屋根の家のそばに住みたいがためにこのアパートに越してきた西は家の周りを何度も見て回る。空き家だった家に森尾一家が住み始めた時にも、西は家が写真集で映された家とは変わっていく姿に意外なことに深い喜びを感じる。「人形が人間になったような生々しさがあった。家の前を通るたび、ポストからはみ出した封筒やベランダに干されたシーツが目に入るたび、西は体の内側を撫でられたような感覚を覚えた」。自分にそんな感性はあるだろうか。西のように日常のささいな変化にも自然と楽しみを見出せる人間でありたい。

 そんな西に影響されて、太郎も、隣の家だけではなく、街、路地、そして人々の暮らしに興味を持ち始める。面倒なことを避けたがる性格だったはずの太郎がほんの少しだけ変わり始める。前よりも気構えずに日常を送る太郎になっていく。

「一つ一つの建物にはそれを建てた人の理想なり願望なりがあったのだろうが、街全体としてはまとまりも方向性もなく、それぞれの思いつきや場当たり的な事情が集積し、さらにその細部がばらばらに成長していった結果がこの風景なのだと思うと、太郎は気が楽になった。その片隅で自分ひとりくらい畳に寝っ転がって昼寝して休日が終わってもいいだろうという気持ちになった。」

 この本では特に何が起こるというわけでもない。家に大きな秘密が隠されているのかもしれないがそれが解き明かされるわけではないし、太郎と西が恋愛関係になるというわけでもない。だが、何気ない日常こそがかけがえのない時間なのだ。この本を読めば、なんだか街をもっと隅々まで歩いてみたくなる。そしてそこに住む人たちをもっと慈しみたい。前向きな毎日を送るために必読の1冊。


同じアパートの女の怪しい行動を目撃する太郎

太郎は次第に西の影響で家に興味を持ち始める

私たちが住む街の記憶、街以外の記憶。ふとすると忘れそうになる

西は家に潜入することに成功するのか?