極東ロシアにウクライナの人が多いのはなぜ? 対立激化、緊張が続く「ウクライナ」を知るための1冊

更新日:2014/9/3

物語 ウクライナの歴史 ヨーロッパ最後の大国

ハード : PC/iPhone/Android 発売元 : 中央公論新社
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著者名:黒川祐次 価格:799円

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 親ロシア派武装勢力と政府軍との緊張が続くウクライナ。ウクライナ東部の親ロシア派武装勢力を支援するロシアとウクライナ政府を支援するEU・アメリカとの対立も激化。本書は、ウクライナの独立に至るまでの歴史をひもとく一冊。本書から両者対立の源が見えてくる。

「日本の対岸にウクライナの子孫がかくも多く住んでいる」。“飢えと放浪への解放”とも形容されたロシアの農奴解放(1861年)からロシア革命(1917年)前まで、多くのウクライナ人(おもに農民)がシベリアからロシア極東地方へと移住したという。その結果、「1914年にはロシア極東にはロシア人の二倍にあたる200万人のウクライナ人が移住していた」。

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 ウクライナの歴史は、このような移住やアメリカ、カナダへの移民が物語るように、平和な時代よりも他勢力による干渉と支配が長く続いた。その理由は、「ウクライナは西欧世界とロシア、アジアを結ぶ通路であった。それゆえにこそ(中略)大北方戦争、ナポレオン戦争、クリミア戦争、そして二度の世界大戦の戦場となり、多くの勢力がウクライナを獲得しようとした。ウクライナがどうなるかによって東西のバランス・オブ・パワーが変わる」からだ。

 ウクライナという呼称がはじめて文献に登場したのは1187年(「キエフ年代記」)。以降、本書巻末の年表に沿って侵攻勢力をあげていくと、リトアニア、オスマントルコ、ポーランド、オーストリア、ロシア、ソビエト。地理的にウクライナはドニエプル河を挟み、左岸地方(東部)と右岸地方(西部)とに分けられる。左岸はモスクワ大公国に、右岸はポーランドに主権があった時代や、ロシア帝国とオーストリア帝国に分断支配された時代があったように、左岸はロシアの、右岸は西欧の影響をより受けた風土が形成され、第一次大戦では、ロシア支配下にあった東とオーストリア支配下にあった西のウクライナ人同士が敵味方に分かれ戦ったこともあった。この東西の一体化こそが、ウクライナの独立だった。1991年、ソビエト連邦崩壊、ウクライナは独立する。しかし、ウクライナが歴史的に抱えた東西対立や民族問題は、独立の裏側に張り付いたままだった。

 本書には、「ウクライナ生まれの芸術家・学者」という見出しが設けられている。おもな名を記すと、作家のゴーゴリ、シェフチェンコ、「屋根の上のバイオリン弾き」の原作者シャローム・アレイヘム、ピアニストのホロヴィッツ、リヒテル、科学者のジョージ・ガモフ、セルゲイ・コリョロフ等々。女優・モデルのミラ・ジョヴォヴィッチやアニメメイクのアナスタシヤ・シパジナを思い出す人がいるかもしれない。緊張が続くウクライナ東部の人たちのなかには、今日の状況を倦み、ロシア極東に避難、移住している人たちがいるという。理由は、「親戚がいるから」とニュースが伝えていた。


目次から

ロシア革命時(1917年)、ウクライナは一時「ウクライナ国民共和国」として独立。しかしその後内戦化し、ボリシェヴィキによって制圧される(第6章から)

戦後シベリア抑留日本人のなかには、ウクライナに移送され土木工事に従事した者も。緊張が続く東部ハルキフには「日本道路」と呼ばれた道が(第7章から)

チェルノブイリ原発事故(1988年)は、ソ連体制への不信を加速。ソ連崩壊、ウクライナ独立の一つの要因になった(第8章から)

巻末にはウクライナ略年表がついている