しのぎを削る少年漫画誌2誌は昭和の縮図であった
公開日:2014/9/27
僕らは「サンマガ」と呼んでいた。「秋刀魚が」ではない。日本初の少年漫画誌『少年サンデー』(小学館)と『少年マガジン』(講談社)を縮めてそう呼んでいたのだ。兄がそういう本が出たと聞き込んできて、勇躍、10円玉を何枚か握りしめて僕は書店へ飛び込んだ。ところが50円足りないのである。噂に聞いた定価よりちょっと高い。そのころの50円なんて4つか5つの子供にとっちゃ大金である。まさか負けてくれるはずもなく、書店のお姉さんとしばらく睨みあったまま蛇と蛙になり、仕方なく家に帰り50円をせしめたあと、めでたく読者となったのだった。
そのころ僕は月刊の『学習と科学』も購買しており、学習雑誌が主食、マンガがおかずといった感じだった。
「秋刀魚が」おかずとはできすぎな話だけれど、本当だからしょうがない。
『サンデー』と『マガジンは』同じ日の創刊だ。1959年3月17日。当初こどもの日にちなんで5月5日発売予定だったのが、お互いに相手より1日でも早く刊行しようと意地を見せ、少しずつ繰り上げあって、とうとうデッドエンドがこの日だったという。
僕が買ったのがこの号だったかどうかは定かじゃないのだけれど、何でも、表紙が晴れがましいくらいの長嶋茂雄の顔だったのは覚えている。
発売日合戦に見るように、両誌は売り上げにおいても、すさまじいばかりにしのぎを削った。それはまさに死闘である。編集部は両誌ともに13人体制。これで週刊誌を作っていくのはいってみれば地獄である。2人で月刊誌を出していた僕にはその戦争状態はよく分かる。なにしろ当時はデータ入稿というのがない。現物の「生原稿」をやりとりするのだ。作家のところへ出かけて原稿を直接受け取る。受け取った原稿にネーム(吹き出しの中のセリフ)を貼らなくちゃならないし、ゲラ(試し刷り)のチェックだってある。こういうのを1週間でやるのだ。終わってもすぐ次の号がある。もうたまりません。どこまで続くぬかるみよ、である。よく耐えた。
この本はそうした死にものぐるいの2誌の、抜きつ抜かれつの戦いを克明に綴った本なのだ。
ただ、彼らの必死の日々はよく分かるのだけれど、書きぶりがちょっと『プロジェクトX』ふうなのが好みの分かれるとこだろう。あしたに向かって走る男たち、なのである。怠け者にとってはいささか「来る」かも知れない。
僕には、タッチが「惨禍」だったらよかったのに。
漫画家で初めて長者番付に入った手塚治虫の連載を「サンデー」は押さえた
時代は明るいあしたへ向かうまさに昭和の登り口だった
編集部のありようも昭和そのもの
『サンデー』の創刊を耳にして講談社も動き出そうとしていた
『サンデー』の表紙は子供たちのアイドル長嶋茂雄に決まる