バイセクシャルの主人公が元カレと再会!? 旅情あり、謎あり、恋ありの恩田陸ミステリー 『ブラック・ベルベット』

文芸・カルチャー

更新日:2017/11/20

「旅情」という言葉を辞書で引くと、「旅先で感じるしみじみとした思い」といった説明が書いてある。よく「旅情ミステリー」なんていったりするけど、別に温泉に入ったり、カニを食べたりすることが旅情ではないのですね。わたしも今初めて正しい意味を知りました。

で、この本来の意味での旅情をもっとも巧みに描き出す現代作家といえば、恩田陸をおいて他にはいないだろう。ちょっと思い出してみるだけでも『月の裏側』『まひるの月を追いかけて』『ネクロポリス』と旅先のちょっと切ない感情が胸いっぱいに広がるような作品が、いくつも浮んでくる。しばしば”ノスタルジーの魔術師”と評される恩田陸だが、実は”旅情の魔術師”でもあるのだ。

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そんな中でも〈神原恵弥(かんばらめぐみ)〉シリーズ、つまり『MAZE』『クレオパトラの夢』『ブラック・ベルベット』(双葉社)の3作は、とりわけ旅情が色濃く漂っている作品ということができるかもしれない。というのもシリーズの主人公・神原恵弥は世界を股にかけて活躍するウイルスハンターであり、彼の生活が旅そのものだからだ。

『MAZE』ではアジアの果ての某国、『クレオパトラの夢』では北海道を訪れた恵弥が、シリーズ最新作となる『ブラック・ベルベット』で訪れたのはトルコがモデルのT共和国。ヨーロッパと東洋の文化が交差するこの国で、恵弥はまたまた奇妙な事件に巻き込まれてゆく。

タイトルの『ブラック・ベルベット』は、シャンパンを黒ビールで割ったカクテルのこと、ではなくて、T国内で発生している謎の病気に由来している。その病気に罹った者は、全身が黒い苔のようなものに覆われて死ぬというのだ。

他にも存在自体が都市伝説のような奇跡の鎮痛剤〈D・F〉にまつわる謎や、T国内で消息を絶った女性研究者の行方、その探索を恵弥に依頼してきた男の怪我など、いくつものミステリアスな出来事が恵弥の周囲で発生。何かが起こっているのに、その繋がりや意味が分からない、というもやもや感は読者になんともいえないトリップ感を味わわせてくれる。本書を読んでいて連想したのは、アメリカが誇るカルト映画監督デビッド・リンチの諸作だった(リンチはその名も『ブルー・ベルベット』という作品を撮っている)。

キャラクターについても紹介しておくと、主人公の神原恵弥は、頭脳明晰、眉目秀麗の敏腕プラントハンターだ。肉体的にはれっきとした男性だが、女性だらけの一家で育ったために、人前でも堂々と「女言葉」で話すという特徴がある。性的には男性とも女性ともつきあえるバイセクシャル。

こんなインパクト満点の主人公を中心に、恵弥の家族や仕事仲間、かつての同級生などおなじみのレギュラー陣が人間模様をくり広げる。今回はこれまで名前しか登場してこなかった恵弥の元カレ・橘君もついに物語に参入。ゲイであることがばれて妻と離婚、現在はT共和国内で働いている橘君と恵弥が再会するというドキドキの展開も含んでいる。少女マンガ的というか、谷崎潤一郎の『細雪』的というか、シリアスになりすぎない大人のきゃっきゃしたお喋りがとにかく楽しい。

物語は中盤からT共和国を巡るロードノベルになる。イスタンブールからアンカラ、塩の湖、カッパドキアやエフェソス遺跡へと向かってゆく旅の記録は、トルコ料理やお酒にまつわるシーンも満載で、読んでいると思わず日常を忘れてしまうだろう。

旅情とミステリーが満載の大人のためのエンターテインメント。こういう贅沢な作品は昨今ありそうでなかなかない。美味しいお酒でも用意して、ゆっくりと楽しみたい作品だ。

文=朝宮運河

ブラック・ベルベット』(恩田陸/双葉社)