耳鳴りの病と速記者の男の指への偏愛が織りなす幻想的な大人の寓話。透き通る悲しさがせつない

小説・エッセイ

2011/9/6

余白の愛

ハード : PC/iPhone/iPad 発売元 : 中央公論新社
ジャンル:小説・エッセイ 購入元:電子文庫パブリ
著者名:小川洋子 価格:432円

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「指」はある意味、容姿よりも表情豊かで雄弁だ。

だからなのか、男の「指」は女性にとって偏愛の対象になりやすい。たとえば無骨な男の容姿に似合わない、繊細でフェミニンな指の形や動きを見てゾクッとすることもあれば、愁いを含んだ美青年なのに、ふと指や爪に目をやると、あまりにずんぐりもっさりしていてすっと興醒め…、なんて経験、意外にあるんじゃないかな?

「余白の愛」は、そんな指へのフェティシズムを蠱惑的に描いた幻想小説でもあり、不思議な恋愛小説でもある。

耳鳴りに悩まされて耳鼻科の病院に通う「私」が、ある健康雑誌が患者を集めて開いた座談会で、速記者のYと出会う。その指に惹かれた私は、指に会いたいために、自らの記憶をYに速記してもらうようになる。「私」は少し前に夫に裏切られ、離婚した辛い経験を持つ。いつものようにベランダで夫に髪を切ってもらいながら、ふと夫の不実を感じる回想シーンは、叫びも呻きといった生々しさがどこにもなく、それでいて透き通るようにもの悲しく痛い。

そんなつらい記憶がねじれを起こして、現実とも幻ともつかない物語が紡ぎ出されていく。夫の愛人、ヴァイオリンの音色にも似た耳鳴り、消えた博物館、Yの手首の小さなアザ、青ボールペンで記される流れるような速記文字、だんだん減っていくなめらかな速記用紙…。読むうちに、小説の風景が絵画のように頭に広がり、見知らぬ不思議な世界に立っている自分に気づいた。

忘れかけていた心のうぶ毛を振るわせてくれる、大人のためのちょっとメランコリーな寓話である。最期に謎解きのように展開される結末は…。言わないでおこう。

通っている耳鼻咽喉科病院の裏手にある古いホテルで、座談会が開かれ、「私」はそこで速記者のYに出会う。このホテルの描写にも、小川洋子独得の幻想絵画のような味わいがある

声がこぼれ落ちたのと、Yの指がボールペンを滑らせた一瞬がきれいに重なり合う様子を、「手品を見ているような不思議な気分」と描写する。こうしたちょっとあさってを向かせて展開する話のズレ感は、小川洋子の真骨頂だ