「新感覚派」と呼ばれた鬼才の鋭い言葉のアクロバットを堪能されたし

小説・エッセイ

公開日:2011/11/23

日輪・春は馬車に乗って 他八篇

ハード : PC/iPhone/iPad/WindowsPhone/Android 発売元 : 岩波書店
ジャンル: 購入元:eBookJapan
著者名:横光利一 価格:712円

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横光利一はいわゆる「新感覚派」と呼ばれる作家の一翼です。
「新感覚派」というのは、感覚が「新」なのですな。この意味は、新しく感じるんじゃなくて、新しい形で感じるんですな。感じ方が新しいと、感じる中身も新しくなるのです。でそれはもちろん、文章の新しさという現れで小説の中にやってきます。

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本書には、10編の短編が収められていますけれど、たとえば「廂(ひさし)を脱(はず)れた日の光は、彼の腰から、円い荷物のような猫背の上へ乗りかかって来た」(蠅)とか、「ナポレオン・ボナパルトの腹は、チュイレリーの観台の上で、折からの虹と対戦するように張り合っていた」(ナポレオンと田虫)とか、「海浜の松が凩に鳴り始めた。庭の片隅で一叢の小さなダリヤが縮んでいった」(春は馬車に乗って)とかいった具合で、奇妙ともいえるユニークな表現が作品を支えているのです。それを読むだけでも充分に面白い。もちろんその表現が与えてくれる独特の世界の手ざわりを感じるならこれにましたことはありませんでしょう。

本書の中でことさらへんてこりんで、その分読み応えがあるのは「機械」という短編です。まず改行がありません。全33ページでなんと8回だけ。おまけに、「、」もほとんどない。「。」もグッと少ない。もうながぁい文章がダラダラダラダラ続くのでして、なに読まされてんのかと呆れるやら、たいへん心地よい。これはもちろんこの小説の語り手である「私」の内面を文体に仕立ててあるからでして、語り手の内面が読み手の体にじわっと染みいってくるように書かれているからつきあっていける長文というわけなのでして。

それが分かってきて読んでると、この「私」ってのが不気味にねじの緩んだ奴なのですね。

ゆくあてもなかった「私」はふとした縁でプレート製造工場の職人になるが、社長は赤プレートというたいへんに発明をした人であるものの金を持たされると必ずすべて落としてしまうという奇癖の持ち主であった。先輩の職人・軽部は「私」のことを赤プレートの製法を盗みにきたスパイだと疑っていろいろ嫌がらせを仕掛けてくる。そのうち、工場の中枢である暗室に「私」だけが招き入れられると軽部の脅しはますますエスカレートするとはいえ、思いがけない大量注文が舞い込んだため雇い入れられた臨時の屋敷の挙動がすこぶる怪しいので、軽部の注意はそちらへ集中する。静かな緊張感の支配する日常は一触即発の雰囲気で進んでいく。

まずですね、軽部と「私」の間でつまらぬことで諍いがはじまり、誰が出て行くなどという話し合いのさなかに「私」が居直ると、軽部は切れて、

「いきなり軽部は傍にあったカルシュームの粉末を私の顔に投げつけた。実は私は自分が悪いということを百も承知しているのだが悪というものは何といったって面白い。軽部の善良な心がいらだちながら慄えているのをそんなにもまざまざと眼前で見せつけられると、私はますます舌舐めずりして落ち着いて来るのである」

この部分の手のつけられなさは、「落ち着く」ではなく「落ち着いて来る」のところでしょう。なんか自分なのに他人事じみた感触がある。「私」のこの得体の知れなさは作中に始終流れています。引用したい箇所はいっぱいありますけれど、とにかくこいつのいびつな感じをぜひ味わっていただきたいものです。

すべてが蠅のみた情景とも読める奇体な一篇「蠅」

腹に田虫のとりつかれたナポレオンを悲喜劇的に描く「ナポレオンと田虫」

「春は馬車に乗って」は肺病やみの妻と私のいたたまれない生活の風景を焼き付ける

ひときわ読み心地の手ごたえがある「機械」 (C)岩波書店