「ナンパ」をし続ける男――寂しさが埋まらなくても声をかけずにはいられない

暮らし

公開日:2017/11/3

『声をかける』(晶文社)

 書店で「ナンパ本」の類が大量に並べられているのは、それほど「需要」があることを証明している。手軽に女性と親密になるための方法が書かれたナンパ本はしかし、女性側の気持ちを無視した内容も多い。「このように声をかければ女性はこう思ってくれる」と当然のように解説されると、違和感を抱く読者もいたのではないか。

 一方、カウンセラー・作家として活躍している高石宏輔氏のナンパが興味深いのは、常に女性側の心の奥底にまで入り込み、トラウマさえもあぶりだしてしまう点にある。そして、彼が女性の傷と向き合うとき、彼自身の心の闇も思い出さずにはいられない。「ナンパは自傷行為」と主張する高石氏のナンパ論は、「ナンパについていく女性」の寂しさ、愚かさが男性側にもあてはまるのだと気づかせてくれる。新著『声をかける』(晶文社)もまた、これまでにないナンパについての物語だ。

 本作は高石氏のナンパ経験をもとにして書かれた小説である。主人公の「僕」は25歳のとき、クラブでナンパを試みる。たまたま美しい年上の女性「麻衣さん」と連絡先の交換に成功し、関係を持ったことで「僕」のナンパはエスカレートしていく。「僕」はさまざまな職業や年代の女性とセックスしたいと願っている。それでいて、関係を持てば女性に連絡しなくなることも珍しくない。「傲慢」を自覚しつつもナンパが止められない「僕」の毎日が、驚くほど無感動な文体で紡がれていく。

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 主人公の容姿や性格はほとんど読み取れない。「自分語り」に夢中な女性たちの台詞は緻密に描かれているのに、「僕」自身のプロフィールは意図的に省略されている。そんな「僕」の空虚さが、彼の抱くコミュニケーションへの飢えを際立たせていく。それでいて、関係を持った女性から甘えられると「僕」は怒りを抑えられない。仕事の愚痴くらいしか会話のネタがない女性も「僕」はあからさまに見下している。また、縁を切りたい女性には情け容赦ない言葉をぶつけていく。「僕」の行動に反感を覚える読者もいるだろう。

 しかし、「僕」がさらけだす身勝手さこそ、人間の本質に触れているともいえる。寂しさを覆い隠そうとして見知らぬ人に声をかけるのは根本的な癒しになりえない。そして、声をかけられた方も決して大切にされているわけではないと分かっていながら付き合ってしまう。「愛情」や「思いやり」の存在しないナンパに意味があるとすれば、一瞬でも他者に受け入れられて「生の実感」を得たいからだろう。それはまるで、血を流して生を確かめる自傷行為のように。

 性的衝動の最中でも「僕」は状況を客観視し続ける。そして、相手への愛情ではなく、歪んだ欲望でのみ衝動はふくらんでいく。たとえば、「僕」はクラブでナンパ相手とキスしながら、「彼女のこの衝動は誰に向けられてもよかったのだろう」と気づいてしまう。

誰に向かってもいいはずのものだったと思うと余計にその衝動を吸い尽くしたくなる。彼女の身体をより強く抱き、尻を強く掴むと、キスは激しくなった。

 こうした主人公の心象は「百合子さん」という女性に言い当てられる。

「ねえ、わかった?誰もあなたのお母さんにはなれないのよ」
(中略)
「あなたのキスは……僕のことをわかって欲しいというキスね。私を包み込もうというキスではないわ。」

 百合子さんの言葉は「僕」の心に刻みつけられ、忘れられない女性となる。それでも、「僕」はナンパを続けずにはいられない。女性も苦手だし、会話も下手なのに新しい出会いを求めて夜の街に繰り出す。やがて、主人公は心に傷を抱えた大学院生「悠」と付き合い始める。「悠」の激しい性格は、「僕」自身のトラウマも蘇らせていく。自分さえも理解できていないのに他者を理解することなどできるのだろうか? 本作は「ナンパ」を通してコミュニケーションの本質を突きつけるのだ。

文=石塚就一