正しいことを言われているのに、ムッとした経験がある?―「正しさの押し付け」はなぜ生まれるのか?

暮らし

公開日:2017/11/8

『正しさをゴリ押しする人』(榎本博明/KADOKAWA)

 確かに正しいことを言っている。でも相手の物言いや態度が妙に腹立たしく思えて、逆にムッとくる、ということはないだろうか?(私はある)

 なぜ正しいことを言われているのに、素直に受け入れられないのか。自分の性格に問題があるのか……と思い悩み、『正しさをゴリ押しする人』(榎本博明/KADOKAWA)を手に取った。

 著者で心理学者の榎本博明さんは序章で、ベッキーや、妻を亡くした数日後に子どもたちとディズニーランドに行った市川海老蔵など、ネットでバッシングされた人たちを例に挙げて

advertisement

落ち度があるかに見える人物を批判する人、何らかのクレームをつける人の中には、ほんとうに正しいことを主張している「正義の人」ばかりでなく、日頃の鬱憤を晴らすかのように人を攻撃する「危ない人」も含まれているのでないかと思わざるを得ない。

 と評しているが、この「危ない人」は今、どんどん増えている気がする。

 たとえば2017年6月、神奈川県の東名高速道路で、ワゴン車がトラックに追突されて夫婦が死亡する事故が起こった。この事故は20代の男がパーキングエリア内で被害者である夫から注意を受けたことに腹を立てて追走し、走行妨害をした上に追い越し車線に車を止めさせたことが原因だ。過失致死傷の疑いで逮捕された容疑者は、車の止め方を夫婦に注意されたことを「言われたらこっちもカチンとくるけん」と言い訳したり、実況検分中にあくびをしたりするなど、態度の悪さが多く人の怒りを買った。しかし容疑者とはまったく関係のない電気設備工事会社に対し、ネット上で「人殺しが働いていた会社」などのデマが拡散したのは、果たして正義によるものなのか。

 名字が同じで住所が隣接していただけで、容疑者とは無関係だったにもかかわらずこの会社には、嫌がらせが殺到して一時休業に追い込まれたという。こうなると正義の暴走どころか、ただの嫌がらせに過ぎない。

 このような正しさは「ムッとくる」どころの話ではない。もはや凶器だ。

 そもそも人間は、立場が違えば何を判断の基準にするかが変わってくる。だから自分にとってはそれが正しくても、相手にとってそうではないこともある。しかし一方的な自己主張で、相手を打ち負かしてやろうとする「正しさの押し付け」は、なぜ生まれてしまうのか。一方的な理屈を主張する人の特徴として榎本さんは

・他の視点からの理屈を想像できない
・共感性が乏しい
・思い込みが激しい
・熟慮しないから自信満々になれる
・認知的複雑性が乏しい
・価値観の違いを容認できない
・感情コントロールがうまくできない

 などを挙げ、分析している。彼らは承認欲求が満たされる機会を持てず、欲求不満を抱えている。輝けない自分へのイライラや鬱憤を社会問題に重ねて発散していると、榎本さんは言う。

 また人のことを妬ましく思う心理からもっと進んで、人の幸せが許せず他人の不幸を喜ぶ、「シャーデンフロイデ」という心理が人間にはあるという。確かに不倫や離婚問題なんて当事者以外には関係ないのに、そんな報道を興奮気味に見てはいないだろうか。ゴシップには興味がないと思っても、たとえば知り合いがヘタをこいた時に「いい気味」と思ったりしないだろうか。まさに「人の不幸は蜜の味」だけど、他人の不幸を喜ぶなんてみっともないと思うと、そんな時に無理矢理相手を悪者に仕立てようといった心理メカニズムが動き出すそうだ。

 同書は6章にわたり、正しさをゴリ押しする人の心理や「正義の人」が「危ない人」に変貌する心理メカニズムを丁寧に解説している。読み進めながら「だからあいつの正しさを主張する態度は鼻についたんだな」など、思わずうなずいてしまった。しかしなぜ正しさをゴリ押しするのかについてはわかるものの、危ない人をかわすコツまでは触れていないのは残念だ。

 また正しさには「弱い者いじめや、人種・民族差別は許されるものではない」など、万人にとって共通のものも確かに存在している。それは決して「立場や状況が違えば考え方も変わる」ものではない。この社会には人間として、最低限守るべき正しさがあることもできれば言及してほしかった。

 とはいえ、独善的な正しさをゴリ押しする危ない人の傾向がわかれば、無防備に近づいてケガすることもないだろう。ネットやリアルの場での主張合戦に疲れた時の、よいサプリになるはずだ。

文=霧隠 彩子