友達との交流禁止、オシャレ禁止、週末は布教活動……。神様を信じる母親のもとに生まれた、ある少女の苦悩と葛藤の物語『よく宗教勧誘に来る人の家に生まれた子の話』

マンガ

更新日:2018/1/15

『よく宗教勧誘に来る人の家に生まれた子の話』(いしいさや/講談社)

 子どもは生まれてくる環境を選べない。残酷な言い方かもしれないが、よくも悪くも、子どもたちは産み落とされた環境を受け入れ、それが彼らの生き方のベースとなっていくものだ。親の職業、年収、家族構成、住んでいる場所……。そういった外的要因に多感な子どもたちは影響を受け、アイデンティティを確立していく。そして、その外的要因には、「親が信じる宗教」も含まれるだろう。果たして、それがどんな結果を招くのか――。

『よく宗教勧誘に来る人の家に生まれた子の話』(いしいさや/講談社)は、「とある宗教」に入信した母親と、二世信者として生きることを強制された少女の実録マンガだ。

 物語は、主人公・さやの目線で語られる。まだ幼い彼女にとって、母親の言うことは絶対。それゆえ、一般的な子どもが送る日常生活と、彼女のそれとは大きな隔たりがある。

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 たとえば、友達と遊ぶのにもいちいち許可が必要とされる。しかも、教団に入っていない「世の子」との交流は避けなければいけないとされているため、母親からは「世の子と遊んでも楽しいわけないよね?」と釘を刺されてしまう。

 短いオシャレなスカートをはけば、「気持ち悪い」「そんな“サタン”の服は脱ぎなさい」と冷酷に言われ、毎週火曜日には「聖書の教えを勉強する」集会が開催される。木曜日と日曜日にも集会が行われ、土曜日には「奉仕」と呼ばれる布教活動のため街を歩く。

 もちろん、幼いさやは、母親の言うことに素直に従う。そうしなければ、「鞭」で打たれてしまうからだ。しかし、さやは次第に気がついていく。何かがおかしいと……。

 本作では非常に淡々とした冷静な目で、当時の状況が振り返られている。そこで感じられたのは、「誰も悪くない」ということだ。第三者である読者の目線からすると、こんな母親の言動に首を傾げたくなるかもしれない。しかし、神様を信じる彼女にとって、すべての行動は自分、そして娘であるさやのため、なのである。いつか終末の日を迎えた時に、楽園で幸せに暮らすため。そう、歪んだかたちだったかもしれないが、そこには母親から娘への愛情がこもっているのだ。

けれど、さやはその「異常性」に気がつく。そして、彼女は思いもよらない行動に出るのだが――。いったいさやがどんな選択をしたのか。それは本作で追いかけてもらいたい。

 誰が何を信仰するのか。それは自由だし、他人が咎めるようなことではない。それはある種の被害者だったさや自身も同様だ。事実、本作において、作者のいしいさやさんは、決して母親やその宗教のことを悪く表現していない。けれど、いしいさんは吐き出すことを決意した。それは、彼女にとって、宗教という名の鎖との決別でもあったのだろう。

 ダ・ヴィンチニュースでは、そんないしいさんへの著者インタビューも予定している。そこで、彼女の胸の内を知った時、あらためて本作の読み方が変わってくるかもしれない。

文=五十嵐 大