『ザ・ベストテン』『ニュースステーション』…‘80~’90年代に一世を風靡した伝説的番組の舞台裏を語る、久米宏初の自叙伝!

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公開日:2017/12/29

『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』(久米宏/世界文化社)

 久米宏。1980年代から1990年代を中心に一時代を築いたテレビ番組『ザ・ベストテン』や『ニュースステーション』等の司会者、キャスターとして活躍した男である。現在73歳だ。TBSのアナウンサーとして仕事を始めてから50年、これまで携わった数々の番組について語った初の自叙伝が『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』(久米宏/世界文化社)だ。

『ザ・ベストテン』は、1978年から1989年にかけてTBS系で放送されていた歌番組だ。黒柳徹子とのコンビで、早口でまくし立てるようにしゃべる軽妙な司会を記憶している人も多いだろう。当時は、まさに歌謡曲全盛期。森昌子、山口百恵、桜田淳子、西城秀樹、郷ひろみ、野口五郎、そしてピンク・レディーとキラ星のごとくスターが現れた時代。現代のように、音楽の好みが細分化されておらず、日本中の誰もがヒット曲を口ずさめるような時代だった。

『ザ・ベストテン』が、それまでの歌番組と一線を画したのは、ランキングの公正さにこだわった、生放送の番組だったことだ。黒柳と久米は、「番組の演出で順位の操作は絶対にしない」ことを条件に司会を引き受けたという。また、生放送ならではの特徴を生かし、歌の合間に時事的な話題も取り入れていた。そのことが、後の『ニュースステーション』にもつながっていく。

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僕にとって『ザ・ベストテン』は時事的、政治的な情報番組であり、のちの『ニュースステーション』のほうがニュースを面白く見せることに腐心したぶん、ベストテン的という意識が強かった。二つの番組は、僕の中で表裏の関係をなしていた。

 最高41.9%という驚異的な視聴率を誇った『ザ・ベストテン』。それを、掟破りの途中降板をしてまで『ニュースステーション』のキャスターへの転身を決めた久米。そこには、久米本人だけでなく、テレビ局、スタッフを含め関係者の並々ならぬ意気込みがあったという。

『ニュースステーション』前と後とでは、ニュース番組の在り方が大きく変わった。それ以前は、NHKニュースに代表されるような真面目な堅い番組が当たり前。それが、セット、出演者のファッション、カメラワーク、小道具、コメント、表情に至るまで、テレビの特性を存分に活かし、わかりやすいニュースを目指した『ニュースステーション』のつくり方は、革命的だった。現在のニュース番組で、『ニュースステーション』の影響を全く受けていない番組はないのではないだろうか。

 それ以上に久米がこだわっていたのが、「反権力」という姿勢。時の政権から反感を買ってまで、敢えて批判的なコメントをしていた。「軽薄」という批判も受けた久米だが、番組に対するポリシーは一貫していた。現在でも、批判を恐れてか、ありきたりのコメントしか言わないどこのが多いが、久米のこの姿勢は画期的だった。

 しかし、映像を最大限利用した番組を提供してきた久米が、番組終了後、見る側に立ってから気づいたというテレビの危険性についての言葉は重い。

テレビ映像は確かに見ている者の生理や潜在意識にまで訴える強い力を持つ。しかし、映ったものを見て、「わかった」と思わせるところはテレビの落とし穴でもある。

 現在の久米宏がニュース番組をやるとどんな風になるのか、特番でもいいから見てみたい。

文=森野薫