アリ対猪木の伝説―「世紀の凡戦」の最中で2人の天才はおたがいの中に何を見たのか?

スポーツ

公開日:2018/1/26

『アリと猪木のものがたり』(村松友視/河出書房新社)

 モハメド・アリ対アントニオ猪木―。40年以上前に行われた歴史的ボクサーと極東のプロレスラーの一戦は、「世紀の凡戦」として語り継がれている。しかし、2016年にアリが他界した際、テレビ朝日が追悼としてこの試合を再放送したように、なぜか人々の心をとらえて離さない。

『アリと猪木のものがたり』(村松友視/河出書房新社)はベストセラー『私、プロレスの味方です』の著者・村松友視がアリ対猪木戦について綴った一冊。猪木と親交があり、アリとも面識を持った著者だからこそ書けた内容が詰まっている。興味深いことに、40年の時を経てあの試合を分析したとき、著者に見えたのは両者の「対立」ではなく「共通点」だったという。そして、その共通点は、人々が「世紀の凡戦」を愛し続ける理由の一つなのではないだろうか。

 1940年生まれの著者は、アリより1学年上、猪木より2学年上である。力道山の時代からプロレスの虜になり、格闘技ファンとして育った著者にとってアリも猪木も重要なヒーローだった。アリと猪木の人生を振り返ると、ボクシングとプロレスの違いはあれども、「差別との戦い」という信念が浮き上がってくる。

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「カシアス・クレイ」という白人に名付けられたリングネームを捨て去り、黒人としての誇り、ルーツにこだわったアリは、アメリカ国内で人種差別と戦い続けたボクサーだ。選手としての全盛期にリングへ上がれなくなったのも「同じ有色人種を殺したくない」との理由でベトナム戦争への兵役を拒否したからである。アリは黒人を差別する白人と同じくらい、白人のように振る舞う黒人ボクサーを憎み、常にマイノリティの味方であり続けた。

 一方、著者は猪木が「プロレスへの差別」と戦ってきたプロレスラーだと分析する。真剣勝負を好む日本人にとって、プロレスは常に反感の対象にされる危険と隣り合わせだ。「プロレスは真剣勝負でないから差別されている」というよりも「虚構だからこそプロレスは許されてきた」と考えるのは、さすが年季の入ったプロレスファンの視点である。猪木をスカウトした大スター・力道山さえ、少しでもプロレスの虚構性に真剣勝負の要素が垣間見えると、バッシングを浴びせられた。それゆえ、日本のプロレスラーは世間から断絶された「かわいげのある存在」であることを強いられてきた。猪木はあえてプロレスの虚構性を飛び出し、世間の側に飛び込むことで批判を呼び込み自らを顕在化させたプロレスラーだったと著者は説く。

 アリと猪木が格闘家としてそれぞれのキャリアを築き、精神性を確立させていくプロセスが本書では克明に描かれていく。何より、リアルタイムを知る者にしか書けない時代の空気についての言及がなされている点が重厚さに拍車をかけている。プロレスラーらしからぬ猪木が、自己演出に優れたプロレスラーのようなボクサー、アリと対決する―。力道山以降の「世間を刺激しないプロレス」を覆すために、猪木が選んだのはそんな「過激なプロレス」だった。しかも、相手はWBA・WBC統一世界ヘビー級チャンピオン、言うまでもなく当時の世界最強ボクサーである。そして、ついに1976年6月26日、2人は日本武道館で対決した。

 しかし、試合は周知の通り、猪木がスライディングとグラウンドに終始し、アリは立ち上がらない猪木を挑発し続けるだけで15ラウンドのほとんどが過ぎていった。「世紀の凡戦」と呼ばれる所以である。ただし、著者は改めて見返した「世紀の凡戦」に新しい視点を投げかける。著者の15ラウンドの詳細な解説で分かる「両者の本気」と2人にしか分からない「真空状態」は、確かに「凡戦」で片付けていいものではない。試合後、苦笑いしながら言葉を交わした2人に芽生えていた気持ちは何だったのか、そして、著者が立ち会った2人の再会の全貌はぜひとも本書で確かめていただきたい。

 40年以上経っても色褪せない「世紀の凡戦」の「生命力」は、リングに立った者たちの生命力の結晶に他ならなかった。以後、猪木はさらに異種格闘技戦を発展させ、現在までの格闘技興行の礎を築く。アリ対猪木は日本の格闘技の新たなスタートラインだったのだ。

文=石塚就一