「そのうち翔涯者になるのでは」毒舌ジョークでまじめに語る障害者の本音

社会

2018/2/13

『考える障害者(新潮新書)』(ホーキング青山/新潮社)

 ホーキング青山氏は「車イス芸人」だ。生まれつき手足などの関節が未発達で変形していて動かない障害があり、普段は電動車イスに乗っている。当然舞台にも電動車イスに乗って出る。

 かなり昔だが、青山氏の芸人デビューのドキュメンタリー番組を、偶然テレビで目にした。最初彼が用意したのは普通のネタであったがそれがまったくおもしろくなく、先輩芸人たちに「笑わせる気があるのか?」と叱咤される。そして本番、電動車イスでひとりでレンタルビデオ店にAVを借りに行くという、思いきったネタに変えて見事笑いをとっていた。国の支給金でAVを借りる、手が使えないので女性店員にAVビデオを取ってもらう、など捨て身の笑いは自虐的できわどいが、本人でなければできない芸当でもある。

 本書『考える障害者(新潮新書)』(ホーキング青山/新潮社)は、そんな芸と同じスタンスだ。障害者のひとりとして、世間の障害者に関する風潮や問題について、笑いをまといながらも、まじめに本音で語っている。

 まず、本書のタイトルに違和感を持った人も多いのではないだろうか。昨今は「障害者」という漢字表記はあまり使われず、「障がい者」「障碍者」と表記される。青山氏は、「言葉を生業としている身なので、言葉の力を否定する気はさらさらない」としながらも、物言いをつける。「碍」とて「さまたげ」という意なのでいい文字ではないし、「『害』にはわざわいという意味があるが『碍』にはない」という理屈については「お前は歩く漢和辞典か!」とつっこむ。

 これではそのうち「翔涯者(しょうがいしゃ)」というキラキラネームが提案されるのではないかとジョークをとばし、「表記を変えたからといって、障害者に対する無知や、そこから起きる偏見や差別が変わるわけではないだろう」としめる。こういう言い換えはどこか安易で、ごまかされている感じがしてしまう。そんな安易なことで事足れりとしてしまう感覚が透けて見えるのだ、という。

 2016年に相模原市内の障害者施設で起きた大量殺人事件、通称「やまゆり園事件」。この事件は、介護職員として働いていた元職員の犯行だったことが、世間により大きなインパクトを与えた。

 青山氏は、容疑者の異常性からやまゆり園の事件を「障害者施設という特別な場所で起きた事件」とあまり考えない方がよいのではないか、としたうえで、ひとつどうしても引っかかる、と次の点をあげている。

 容疑者の「保護者や職員を疲れさせるだけのような障害者を生かしておく意味はあるのか?」「働くことができず、何の富も生産しない障害者を税金で生かしておくべきか?」という挑戦的な問いかけに対し、障害者自身もそのまわりの人も、まともに答えている人がいないことについてだ。

 これに対し、青山氏はこう述べている。

答えなんて簡単なの。
私はそう思っている。
「この人は生きてていいか?悪いか?」なんて問いを設定すること自体がおかしい。
たいていの人は、「生まれてきちゃったんだから寿命が来るまでは生きたい」と思っている。

 もちろん、際限なく税金をつぎ込むことはできるはずもないし、あらゆる人に負担を強いることもできないことはよくわかっている。でも、だからといって「だから死んでもいい」とは、あまりにも短絡的であり納得できない。これだけの話だ。

 言うまでもなく、この世には障害者じゃなくても世間に迷惑をかけているヤツなんていっぱいいる。会社にだって、給料泥棒といわれる人は珍しくないはずだ。だけど誰も「そんなヤツだから死んでもいい」とはいわない。なぜ障害者だけ生き死にを他人に言われなきゃならないんだよ、と青山氏は言う。

 さらに、障害者だけがまわりから「生きる意味」を問われてしまう現状に違和感を示し、

皆が障害者の『生きる意味』を論じだす。そのこと自体が、何だか大げさというかおかしいのだ。

とも述べている。

 そして、本当に考える必要があることとして、保護者の負担軽減、介護職員の待遇、税金の問題を提起する。

 芸歴20年のキャリアが生み出すちょっぴり毒づいた文章は、こちらの無意識に遠ざけがちな障害者への意識を軽々飛び越えさせる普遍的な魅力がある。構えず気楽に手に取ってほしい本だ。

文=高橋輝実