死体の顎を割って金歯を取り出す…語られなかったアウシュヴィッツの歯科医の日々

暮らし

2018/4/5

『アウシュヴィッツの歯科医』(ベンジャミン・ジェイコブス:著、上田祥士:監訳、向井和美:訳/紀伊国屋書店)

「芸は身を助く」。自分に身についた芸や技術が思いもかけないときに役立つことをいう。よく「手に職をつける」などという言い方をするが、身についた技術は誰も奪っていかない。だから、何かの免許や資格を取得して特殊な技術を身につけることは、その人にとって、もしものときの保険であるとともに、大きな財産にもなる。

『アウシュヴィッツの歯科医』(ベンジャミン・ジェイコブス:著、上田祥士:監訳、向井和美:訳/紀伊国屋書店)は、ナチスドイツがユダヤ人を迫害していた時代に、歯科医学生だったユダヤ人の著者本人が体験した実話である。ホロコーストは歴史上稀に見る残虐行為で知られているが、本書はちょっと違う切り口で歴史を知ることができる。

■歯科医であることで救われた命

 当時、歯科医学生であった著者は、ナチスドイツに連行される際に、母親に無理やり歯科医療の道具を持たされる。強制収容所にたまたま歯科医が常駐していなかったことから、治療を言い渡され、収容者のみならずドイツ軍をも診ることになるのだが、そのおかげで辛い肉体労働を免除され、食べ物の支給も優遇、父親も他のユダヤ人に比べて厚遇されていた。

 まさに、著者の芸(技術)が身を助けることになったのだ。周りで働いていたのは「敵」であるドイツ兵たちだったが、ユダヤ人である著者を差別する者は少なく、またヒトラーを非難するドイツ兵たちがいたことまで本書に記されている。

■歯科医だからこその、おぞましい経験

 しかしそんな著者も、よいことばかりではなかった。ある日、ドイツ軍の上級曹長から新しい歯のブリッジをつくるための金の入手について、驚愕の提案をされる。収容所の死体置き場に投げ捨ててある死体から金歯を取ってくるように命令されたのだ。本書には、その時の著者の心の葛藤と恐怖が詳細に記されている。

何度か死体置き場の前まで出向いたものの、毎回、拒絶感に襲われた。気分の悪さをこらえながらドアを開けてみると、そこは縦二メートル半、横三メートルほどの小さな部屋だった。中に入ると、まず死臭が鼻をつき、思わず体がぞくりとした。コンクリートの床に、骨と皮ばかりになった死体が積みあがっている。(中略)
勇気を振りしぼって中年男性の死体に近寄った。半開きの目がこちらを見上げている。まるでこれからしようとしている非道な行為を責めるかのように。口をこじ開けようとすると、その肌は氷のように冷たかった。力をこめてやっとのことで押し開けたとき、顎の骨が砕ける鋭い音がして、わたしは恐怖におののいた。(中略)
もしかしたら「やめろ!」と訴えているのかもしれない。今にも死体が起きあがって抵抗しそうに思えた。

 本書を読んでいると、まるで小説を読んでいるかのような錯覚に陥る。しかしこれは紛れもなく実際に起きた残酷な歴史の一部だ。過去に犯してきた過ちから学び、改めて平和を誓うべき時が今、私たちにきているのではなかろうか。

文=銀 璃子