2011年3月フクシマ――日本を助けようとしたアメリカ兵士たちの後遺症と訴訟のゆくえ

社会

公開日:2018/4/19

『漂流するトモダチ アメリカの被ばく裁判』(田井中雅人、エイミー・ツジモト/朝日新聞出版)

 2011年3月12日。西太平洋を航行中だったアメリカの原子力空母、ロナルド・レーガンは進路を変えた。東日本大震災を受けて、日本の東北地方へ人道的支援に向かうためだ。空母は救援物資運搬の重要な拠点となっただけでなく、アメリカ海軍兵士たちも津波に流された人々の救助を行った。アメリカの救援活動は「トモダチ作戦」と呼ばれ、美談として語り継がれている。

 しかし、レーガンの兵士たちのその後については、日米ともにほとんど報道することがない。そのため、作戦終了後、兵士たちの多くが重病に冒され、9名もの死者が出た事実を知る人は少ない(2017年12月時点)。兵士たちは放射能汚染について、正確な情報を隠蔽されたまま任務に就いたとして、福島第一原発を運転した東京電力、原発メーカーを提訴している。現在までに400名以上が原告に名を連ねる訴訟の詳細を追ったノンフィクションが『漂流するトモダチ アメリカの被ばく裁判』(田井中雅人、エイミー・ツジモト/朝日新聞出版)だ。

 本書では、原告たちの証言をもとにトモダチ作戦の裏側と、彼らに降りかかった過酷な運命を克明に描き出していく。トモダチ作戦始動から間もなくレーガンは放射性プルーム(帯状の雲)を浴びてしまう。そして、兵士たちに異変が現れた。髪の毛が抜け落ち、記憶障害や吐き気がひどくなっていく。また、体の一部が大きく腫れ上がった兵士もいた。いずれも典型的な放射線被ばくの症状だ。東京電力が情報開示を怠ったため、レーガンでは十分な放射線対策が取られていなかったのである。

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 だが、驚くべきは海軍上層部の対応だ。作戦遂行中、兵士たちの衣服に対し、ガイガーカウンターは激しく反応していた。そんな中でも、兵士たちは作業を続けるように上層部から指示されていたという。被ばくを抑えるための安定ヨウ素剤は上司たちにまわされるだけで、末端の兵士たちには配られなかった。にもかかわらず、兵士たちは「ヨウ素を服用した」と同意する書類へのサインを求められる。「サインすればヨウ素を渡す」と言われ、仕方なくサインした兵士にもヨウ素を服用できる機会はめぐってこなかった。

 帰国後、兵士たちは白血病や脊髄損傷などを発症し、仕事や家庭生活に大きな支障をきたしていく。それでも、アメリカ海軍は一向にトモダチ作戦と兵士たちの病の関連を認めない。その一方で、トモダチ作戦に参加した兵士たちはこぞって不調を訴え、死んでいく。たまらずに、報道機関に出演して真実を訴える兵士たちにもバッシングが寄せられた。彼らには誹謗中傷が投げかけられ、専門家たちは「あなたたちの症状と放射線には何の関係もない」と批判した。

 本書では、2011年の日米関係を振り返り、アメリカ政府の思惑を考察する。当時、普天間飛行場の移設問題などで米軍基地への反感はピークに達していた。トモダチ作戦には、米軍基地の必要性をアピールしたい意図が隠されていたのだろう。兵士たちの被ばくは日米同盟を揺るがしかねない大問題であり、アメリカ政府からすれば絶対に否定しなくてはいけない案件だったのだ。

 日米両国から黙殺されつつあった原告たちに耳を傾けたのは、意外な公人だった。かつては原発推進派だったはずの小泉純一郎元首相がアメリカに飛び、原告たちと対話したのである。ときに嗚咽すらしながら対話を終えた小泉氏はその後、記者会見を開き、東電とアメリカ海軍、そして原発事故に対する報道のあり方に疑問を呈した。小泉氏は記者会見でこのような発言を残している。

これは原発反対論者も、原発推進論者も、病に苦しむ兵士に何ができるか、共同で考えることだと思っています。これは人道上の問題だと思っています。

 原告側の開廷希望日は2019年5月。その日を待っている間にも、トモダチ作戦の兵士たちは命の危険にさらされている。本書に収録されたインタビューを通して、彼らからは一言も日本を恨む発言は出てこなかった。むしろ、日本の治安や人々の礼儀正しさを心から愛してくれていると伝わる。たとえ政府にどんな思惑があろうとも、あの日東北に駆けつけてくれた兵士たちの善意だけは真実だ。彼らの気持ちをこれ以上踏みにじってはならない。

文=石塚就一