夏フェスは「ロックフェス」と呼べるのか? 日本独自の夏フェス文化を斬る

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公開日:2018/5/5

『夏フェス革命 ―音楽が変わる、社会が変わる―』(blueprint:発行、垣内出版:発売)

 盆休み前後の風物詩となったロックフェスティバル、通称「夏フェス」に参加したことがある人は、「ロック」という言葉から程遠い様相を目の当たりにしたのではないか。ロックバンド以上にJ-POP歌手やアイドルが集客を収め、飲食屋台からトイレ、休憩所にいたるまで快適な空間が広がっている。どこまでも混沌とした欧米のロックフェスと日本の夏フェスは別物なのだ。その結果、夏フェス黎明期を知る音楽ファンも現状に違和感を覚えている。かくいう筆者もその1人である。

 ブロガーとして脚光を浴び、今では音楽メディアでの寄稿も数多いレジー氏、初の単行本『夏フェス革命 ―音楽が変わる、社会が変わる―』(blueprint:発行、垣内出版:発売)は夏フェスの転換について考察した読み応えのあるレポートだ。長年、夏フェスの現場に足を運び続けた著者の実感と、緻密なデータ収集によって紡ぎだされる「夏フェスの現在」は、日本独特のポップカルチャー観を浮き彫りにしていく。

 日本における夏フェスの走りは1997年以来続いているフジ・ロックフェスティバルである。第1回では、レッド・ホット・チリ・ペッパーズやレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンといった海外の大物バンドをブッキングし、日本初の本格的なロックフェスとして大きな関心を集めた。そして、サマーソニック、ライジング・サン・ロックフェスティバル、ロック・イン・ジャパンといった夏フェスが次々に誕生していく。

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 フジロックとロック・イン・ジャパンの第1回はいずれも台風の到来により、タイムテーブルが一部中止に追いやられてしまうなど、日本の夏フェスの幕開けは順風満帆とはいかなかった。しかし、やがて夏フェス独自の価値を押し出すようになってから、飛躍的に来場者数は伸びていく。特に国内最大規模のロック・イン・ジャパンは、ロックフェスとしては世界有数の経済効果を挙げるまでに成長した。

 著者が述べる夏フェスの価値とは「(1)出演者」「(2)出演者以外の環境(衣食住)」「(3)参加者間のコミュニケーション」である。そして、(2)と(3)に重きが置かれているのが日本の夏フェス興行の成功理由だと考察していく。(1)だけでは、コアな音楽ファンに訴求できてもふだん音楽を聴かない層にまで届かない。(2)と(3)が充実しているからこそ、「音楽に興味はなくてもイベントとして夏フェスを楽しみにくる」来場者を増やせるようになったのだ。

 特に(3)をアピールしてきたのは、「インスタ映え」が流行語になるSNSの時代を先取った革命だった。いつしか夏フェスでは「参加者が主役」というメッセージが叫ばれるようになり、ライブそのものよりも、開放的な空間で自由を謳歌することこそが夏フェスの楽しみ方に変わっていく。つまり、花火大会やテーマパークと同等の「夏休みイベント」として夏フェスは発展していったのだ。女性ファッション誌で、音楽ファンから実用性を疑問視されがちな「夏フェス・コーデ」が特集されるのも、夏フェスの非音楽化を象徴している。今ではアーティスト側も夏フェスをマーケティングの場として積極的に利用するようになった。著者は現在の夏フェスの状況を「協奏」と表現する。何も夏フェスは、運営側の思惑通りに観客やアーティストが搾取されている場ではない。むしろ、観客から自然とわき上がってきた需要を運営側が具体化していったのが現状なのだ。誰もが同じオフィシャルTシャツを着て、興味がないアーティストのライブでもとりあえず一緒に盛り上がる―。日本の夏フェス文化をハロウィンやサッカー日本代表戦にたとえる文章は絶妙である。

 しかし、コアな音楽ファンにとって現在の洗練された夏フェスが、第1回フジロックから想像していた未来からかけ離れているのも事実だ。そして、「フェス以外のライブに観客が来なくなる」「フェスの観客は一体感を求めるあまり、ノリのいい曲にしか反応しなくなる」などの弊害も起こっている。本書は、経済活動としての夏フェスのあり方を評価しつつも、「音楽の場」としてのあり方には警鐘を鳴らす。このせめぎ合いこそ、音楽ファンが夏フェスに抱く複雑な感情そのものなのだ。

文=石塚就一