医学とは「もっとも未熟な科学」である。患者には見えない医学の真実

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2018/5/19

『不確かな医学』(シッダールタ・ムカジー:著、野中大輔:訳/朝日出版社)

 ある日のランチタイム、同僚が言った。「病院でだけはミスがあってはだめなの」。その頃、医療ミスによるニュースが頻発していて、祖母が入院しているという彼女は心を痛めていた。人の生死がかかった場でのミスは許されない。しかし、そもそも医学とはどこまで信頼できるものなのか?

 本書『不確かな医学』(シッダールタ・ムカジー:著、野中大輔:訳/朝日出版社)の著者は、アメリカのがん専門の内科医だ。彼は、医師としての訓練を積むにつれて、自身の受けてきた医学教育には大事な部分が欠けていたことに気づく。それは、情報知(確実で、安定していて、完全で、具体的なもの)と臨床知(不確実で、不安定で、不完全で、抽象的なもの)の「融合」だ。不確かな臨床の現場で医学の科学知識を使うには、それが欠かせないのだという。

 この2つの領域にある知を融合するための道具立てを見つけられないかと、著者は模索し始める。目指したのは、荒波のようにも思える医療の世界で、若手医師が実地で学んでいくときの手引きとなるような基本的な法則だ。そして著者が見つけたのが、本書に記された3つの法則だ。

法則1 鋭い直観は信頼性の低い検査にまさる

 2001年に研修1年目だった著者は、原因不明の体重減少と疲労に悩む56歳の男性カールトン氏の診察を担当する。彼は裕福な資産家の御曹司だった。症状から疑わしいのはがんであったが、家系や臨床結果からその兆候は見つからず症状は悪化するばかり。

 そんなある晩のこと、著者はそのカールトン氏がある男性、著者が数カ月前に診察したヘロイン中毒者だった別の患者と話しているのを見かける。普段ならただ偶然だと考えただろうが、妙にひっかかる。そして謎が解けた。カールトン氏はヘロイン常用者だったのだ。翌週、著者はカールトン氏にHIVの検査を受けてもらい、結果は陽性であった。

 このケースには、きわめて重要なポイントが含まれている。それは、前もって割り当てた確率や想定に照らしてしか、検査や診察結果の解釈はできないということだ。

 大事なのは、患者が病気にかかっている可能性(リスク)を事前に算出することなく検査をすると、“偽陽性率”と“偽陰性率”のせいで正確な診断は難しくなることだという。どんな医学の検査にも、偽陽性と偽陰性があるそうだ。偽陽性とは、実際には病気や異常がなくても、検査で陽性と判定されること。偽陰性は逆に、検査結果が陰性でも実は異常がある場合だ。

 例えば、HIV検査の偽陽性率が1000分の1だとする。(本当は感染していないのに1000人に1人は陽性と判定される)。これを、1000人に1人の割合でHIV患者がいる集団に受けてもらうとする。偽陽性率から言って、陽性と判定される実際の患者が1人いれば、感染していないのに陽性だと判定される患者もおよそ1人いる計算になる。要するに、陽性判定を受けた患者のうち、実際に陽性の割合は50%しかないわけだ。このような検査はあまり役に立たない。

 だから、危険因子のまったくない患者にHIV検査を行ったとしても、ほとんど何も得られない。検査結果が陽性でも検査が間違っている可能性のほうが高いのだ。

 一方で、検査をする前に「感染リスクの高い」集団をより分けられるとする。前もってわかる有病率が仮に100人中19人にまでなると、状況は劇的に変化する。20の検査で陽性判定が出れば、間違いはひとつだけで、他の19の検査結果は実際に陽性となる。つまり、検査の精度は95%になる。検査対象を変えるだけで、同じ検査が実用的になるのだ。したがって、検査の弱点を克服するためにはしっかりとした「事前知識」――これまでインフォーマルに“直観”と呼んできたもの――が必要なのだ。

医学が不確かであることを認めてこそ、科学技術の発展は進む?

 本書では、続けて法則2「正常値からは規則がわかり、異常値からは法則がわかる」として、特異な症例の原因から新たな医学的法則が発見されるかもしれないこと、法則3「どんなに完全な医療検査にも、人間のバイアスはついてまわる」として、医療の現場であっても思い込みや願望によって判断や解釈がゆがめられやすいということについて実際の事例とそこから導き出した基本的法則の説明が続く。

 これらはいずれも私たちの医学の見方を変えてくれるだろう。医学というもっとも信頼すべき科学が、実は意外に未熟な科学であることは驚きだが、本書はその状況を否定するものではない。著者は、だからこそ適切な情報知と臨床知の融合が必要だと語る。

 本書はTED(価値あるアイデアや最先端の技術を広めるためのプレゼンを主催するアメリカの団体)における一般向けのスピーチをベースにしているので、医療関係者でなくともすらすらと読める語り口だ。著者の、まるで哲学者のような鋭く粘り強い思考、それでいて控えめな姿勢には好感が持てる。医学を志す人にはぜひとも本書を手に取ってもらいたいが、私たちの生活を支える科学を違う視点で検証しなおすという行為は、すべての人の参考になるだろう。

文=高橋輝実