誰もが移民になりえる時代に。失われた言葉を探して旅する先で見つけるものとは『地球にちりばめられて』

文芸・カルチャー

2018/6/15

『地球にちりばめられて』(多和田葉子/講談社)

 同じ日本語を話していると思うから喧嘩になるんだなあ、と思うことがある。言葉の力を信じすぎているのかもしれない。話せば、伝わる。伝わらないのは、言葉が足りないから。でも言葉を尽くせば尽くすほど、理解から遠ざかることは少なくない。それに気づいたのは、すれ違い続ける二人のあいだに“通訳”として介入したときだ。いや彼が言っているのはそういう意味じゃなくてね、彼女はこういうことを伝えたいんだよ、と逐一説明するのは骨が折れた。人間がちがえば、言葉のもつ背景も、使う文脈もまったく異なる。人は誰しも、その人だけの母国語を話しているのだ。そんなことを『地球にちりばめられて』(多和田葉子/講談社)を読んで思い出した。

 本当におもしろい小説を読んだとき、内容について語るのはとてもむずかしい。物語に触発されて、記憶がよみがえったり思索が旅に出たり、自分の内側からうまれる声に耳を傾けたりするので手いっぱいになるからだ。本作も、そんなたぐいの小説だ。

 最初の語り手は、デンマークの大学で言語学を学ぶ青年・クヌート。“母国を失った人々”が座談するテレビ番組をみながら、ある女性に強烈に惹かれる。名前はHiruko。母国であるアジアの列島は海に沈み、移民として国を転々とするうち、独自の言語を編み出した女性だ。興味をもったクヌートは彼女にコンタクトをとり、彼女と同じ母国をもつ人をさがす旅に出る。

 読み進めていくうちに、Hirukoが失ったのはどうやら日本だということがわかってくる。けれど彼女の語る日本は、私たちの知っている国から制度も文化も少しずれている。彼女自身、自分の記憶する母国の文化が、真実なのかそれとも自分が想像で補完した創作なのか、わからなくなることがある。それはおそらく、日常に生きている私たちも同じだ。自分が記憶しているものが“本当”だなんていったい誰にわかるだろう? 確かに存在しているものなんて、いま目の前にあるものしかない。それさえ、言葉のちがう人と語り合うだけで認識がずれるものなのに。

 語り手は次々と変わっていく。クヌートとHirukoが旅先で出会った“性の引っ越し”をしているインド人の青年・アカッシュ。旅の目的である、ウマミ・フェスティバルの主催者・ノラ。彼女の恋人で行方をくらませた、出汁職人・テンゾ。それぞれがおのれの出自を語り、揺らぐアイデンティティを探している。物語のおわりではついにHirukoと母国を同じくする男を見つけ出すのだが、全員が彼のもとに集結するシーンは感動的というよりもコミカルで、思わず笑ってしまった。突如参戦したクヌートの母親が状況をかきまわし、親子だからといって言葉と文化を共有しているわけではないことを教えてくれる。逆に、かわす言葉はたどたどしくても、隣にいるだけでわかりあえることもあるということも。

 だがそれは、この物語が描き出すほんの一部。30年近くドイツで小説を書き続ける著者ならではの視点で、物語は奥行きと広がりをみせる。何度も読んで、言葉を味わいなおしたくなる、そんな小説である。

文=立花もも