人気歌人・穂村弘が感じた「昭和」そして「現在」――17年ぶりの歌集『水中翼船炎上中』

文芸・カルチャー

公開日:2018/6/15

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夜ごとに語り続けた未来とは今と思えばふわふわとする

 大人になって、私たちは途方に暮れる。ここは一体どこなのだろう。まるで知らない星にひとりぼっちで降り立ったような心もとない気持ちにさせられるのは、自分をこの世に産んだ人たちが、ひとり、またひとりといなくなるせいだ。母よ。そして父よ。子ども時代に当たり前にあった風景も、蜃気楼のように遠ざかり、やがて跡形もなく消えてしまう。いずれ自分もここから消え去ることがリアルに実感できた時、通り過ぎてきた景色がまったく別の輝きで、きらきらと降ってくる。

 穂村弘の17年ぶりの最新歌集『水中翼船炎上中』(講談社)は一見ノスタルジーにみえながら、穂村弘ならではの試みと批評性が込められている。誰かの子どもだった時代の終わり。ひとつの時代の終わり。昭和38年(1962)生まれのこの歌人にとって元号が平成からまた変わろうとしている今こそ、失われようとするものを言葉にして刻みつけておかねばならない時なのに違いない。陸海空を自由に移動できる「水中翼船」は昭和の子どもが見た夢だった。

 歌集は、こんな一首で幕を開ける。

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お天気の日は富士山がみえますとなんどもなんどもきいたそらみみ

 新幹線もまた昭和の子どもの憧れだった。なんどもなんどもきいたそらみみ。ひらがなで記された呪文のような言葉が、遠い記憶の呼び水になる。

食堂車の窓いっぱいの富士山に驚くお父さん、お母さん、僕

 新幹線に食堂車はもうない。三十一文字にちりばめられた固有名詞のうつろいやすい輝きは、昭和の子どもが歩いてきた道のはかない道標のようだ。

グレープフルーツ切断面にお父さんは砂糖の雪を降らせています

パンツとは白ブリーフのことだった水道水をごくごく飲んだ

 半分に切ったグレープフルーツに砂糖をかけて食べるのがオシャレだった時代。ズボンのことを「パンツ」なんて言わなかったし、水を買う日が来るとは思ってもみなかった。丹前姿の父。炬燵の上で不二家のクリスマスケーキを切る母。信じていたものはまだある。

守護霊はいつも見つめているらしく恥ずかしかったトイレとお風呂

 こっくりさんに超能力。『ムー』を読んで育った不思議大好きな世代。街の風景も変わっていく。東京タワーはもう世界一じゃないし、キオスクも今はない。

くてんかなとうてんかなとおもいつつ、を見つめている風の夜

 句点か、読点か。終わるのか、続けるのか。生きていくことはそんな夜をいくつもくぐりぬけていくことだ。死ぬのか、生きるのか。

冷蔵庫の奥の奥にはかちかちに凍った貯金通帳の束

ちちははが微笑みあってお互いをサランラップにくるみはじめる

 冷蔵庫に入れておけば大丈夫。サランラップをかけておけば腐らない。子どもの頃に戦争があって、働き盛りに高度経済成長期をくぐりぬけ、家電をひとつずつ揃えていくことが幸せだった親の世代にとってのいたいけな永遠のかたち。あれはひとつの信仰だったと思う。

小の字になってねむれば父よ母よ2003年宇宙の旅ぞ

 気がつけば、親の背中はいつの間にか小さくなり、もはや川の字ではない。親の老いを目の当たりにすると、そう遠くない未来に宇宙に取り残される自分が見えてくる。子どもの頃、夜中に死について考えて眠れなくなったことを思い出す。キューブリックの映画のラストシーンは胎児だった。命はどこから来て、どこに還っていくのだろう。私だけのものだったはずのささやかな喜びも哀しみも、あの時、あの時代ならではのかたちをしていたと気づく時、大きな時の流れが見えてくる。

海光よ 何かの継ぎ目に来るたびに規則正しく跳ねる僕らは

さよならと言ったときにはもう誰もいないみたいでひらひらと振る

 非常に緻密に構成された歌集である。

真っ青な空の光のどこからか僕の頭に降ってくる蟻

 それは子どもの頃、遠足で行った東京タワーから投下したあの蟻かもしれない。時空が歪む。SF小説のように。昨年は『鳥肌が』で第33回講談社エッセイ賞を受賞。現実に対する違和感を的確な言葉で切り取ってきた歌人だ。ありとあらゆる価値観があっけなく崩壊していこうとしている現在、生きていくことのとりとめのなさをすくいあげるのに歌集はなんてうってつけの器だろう。ランダムに点灯する記憶の断片でしか言えない私たちの命よ。なぜ覚えているのかもわからない一瞬一瞬よ。すべていつか消え去るとしても。

なにひとつ変わっていない別世界 あなたにもチェルシーあげたい

文=瀧晴巳