極度の潔癖症で食べるのがこわかった泉鏡花、「残り物」を好んだ稲垣足穂……文豪の個性的すぎる「食歴」の数々

暮らし

公開日:2018/7/1

『作家のまんぷく帖』(大本泉/平凡社)

「食と人生」、そんな言葉を浮かべると、色彩ゆたかな思い出がつぎつぎやってきては消える。手の込んだ母の料理、祖父母宅でつまんだお寿司、旅先の川べりでたのしんだお酒、特別な日の外食。あたたかな記憶の一方で、ふと影が差すことだってある。一人暮らしをはじめて自作のまずい料理を食べたときの、ぼんやり寄る辺ない気持ち。つらいとき、食事の味がわからず悲しくなったこと。あの人が最期に口に含んだもの。

 生きることと食べることは切り離せないし、食べることの半分は感情や記憶からできている気がする。誰だってそんな実感はあるだろうけれど、それをとことん生き方で、言葉でつきつめたのが作家だろう。『作家のまんぷく帖』(大本泉/平凡社)は、食への個性的なこだわりをみせた近現代の作家22人の「食歴」を紹介する一冊だ。

 たとえば高村光太郎。亡き妻智恵子をしのぶ詩集『智恵子抄』には、彼らの生活を彩り、そして亡き妻の象徴となったさまざまな「食」が登場する。智恵子の忌日が「レモン哀歌」にちなみレモン忌と呼ばれることは、よく知られているだろう。『智恵子抄』の数々の詩のうち、食と性を芸術に昇華した愛の記憶だと本書で評価されるのが「晩餐」だ。土砂降りや質素な食材の描写からはじまり、劇的なラストへとつながる。

advertisement

われらの晩餐は/嵐よりも烈しい力を帯び/われらの食後の倦怠は/不思議な肉慾をめざましめて/豪雨の中に燃えあがる/われらの五体を讃嘆せしめる/まづしいわれらの晩餐はこれだ

 貪欲に食を求めこだわった高村光太郎に対し、食を恐れたのが泉鏡花だ。極度の潔癖症で知られる泉鏡花は、なんでも加熱しなければ気がすまず、鶏肉はくたくたに煮込ませ、酒もぐらぐら熱して燗で飲んだ。パンやりんごなど手づかみで食べるものは、指の触れた部分を最後に捨ててしまったという。なんだか息苦しそうな気もするが、夫人の助けも得ながら、好物を楽しみつつこだわりの食生活を送ったそうだ。

 稲垣足穂も個性的な食歴の持ち主だ。なにしろ「残り物」を好んで食べていたらしい。感覚や精神性を追求した足穂は「三度三度のおかず責めは人間を精神的にスポイルしてしまう」(『東京遁走曲』より)、「人々が棄てて顧みない端くれにこそ真の味が光っているのだ」(『ウオぎらい』より)という名言とともに、ストイックな食生活を重んじた。この主張には、足穂自身の極貧生活も影響しているという。ごみためから残飯をあさるような経験をしながら、己を卑下するのではなくこのような一家言をもつに至るなんて、誰もができることではない。

作家達の「食」への探究心は、時には微笑ましく、滑稽で、あるいは惨たらしく、切なくて哀しい。猥雑性のあるのが文化だとすれば、文化をことばで担っていく作家達の「食」への執着が、個性的で強靭で複雑になるのは当然なのかもしれない。(p.11)

 他の作家たちも、めくるめく食のこだわりをみせてくれる。徹底的に美食を追求した北大路魯山人、ひとつひとつの料理に凝り、飽きるまで同じメニューを食べつづけた宇野千代、マクロビオティックの実践者だったという平塚らいてう。ページをめくるたび、自分の経験や感性では及びもつかない、はるかに濃厚な「食」のありかたに出会いめまいすら覚える。

 すばらしい食材や高価な料理を追求することだけが、必ずしも「食」のこだわりなのではない。残飯から高級料亭の食事まで、作家たちと「食」の軌跡はじつにさまざまだ。そんな軌跡をたどっていると、わたしたちの普段の食事だっていつもと違う輪郭をもちはじめる……なんて、やっぱりすぐに文豪なみの感性になれるわけではないけれど。それでも、台所でのひとつひとつの所作、食べるときの振る舞いや会話、一口一口を噛みしめたあとの余韻、そんなものをいつもより大切にしてみたいと思えてくる。もし経済状況から不本意ながら質素な食事をしていたとしても、それもわたしと「食」のひとつのありかたなのだと前向きになれる。

 本書では、各作家が極上の描写でつづるお気に入りの食べ物や、誰でもすぐチャレンジできそうなレシピなども随所に紹介されている。また作家が通ったお店へ著者がじっさいに訪れた体験記もあり、作家の「食」をいっそう身近に、現実的に感じることができる。日常のふとしたときに読みたい一冊だ。

文=市村しるこ