母は死に、父は人を殺した――。人としての何かが欠落した息子の復讐計画。「驚愕のラスト」を読者はどうとらえる?

文芸・カルチャー

2018/6/30

『我が心の底の光』(貫井徳郎/双葉社)

 何かを奪うためではなく取り戻すための犯罪とは、何と哀しいものなのだろうか。貫井徳郎の作品を読むと、そんな感慨に打たれることが多いのだが、本作『我が心の底の光』(双葉社)を読んで改めてそれを強く感じた。

 主人公の峰岸晄は、ずっと奪われてきた人間だ。彼は5歳にして母親を失い、父親は人を殺した。伯父夫婦に引き取られたものの、血のつながらない伯母はひたすら冷たく、晄が厄介者であることを隠しもしない。唯一の血縁者である伯父も、世間体から晄を引き取っただけで、保護者らしいことをしようとはしない。学校では殺人者の子として陰湿ないじめに遭い、心を許す友達もいない。学校でも家でも、彼は目障りな異物だ。

 しかしそんな状態に置かれていても、晄は意に介さない。なぜなら、5歳で両親と離別する前、彼は絶対的な孤独と絶望を味わっていたからだ。その体験について詳述は避けるが、8年前に大阪で起こった児童虐待の某事件を思い出す人も多いはずだ。その凄惨な体験こそが晄の人格形成の核となり、後に彼の人生を懸けて行う復讐計画のモチベーションとなる。

 成長する晄の内面は詳述されず、淡々と事実が語られていく。しかし、高校生の時の高飛車な女子に対する計画的な嫌がらせ行為や、長じてサラ金の取り立て屋となってからの一貫した無情、さらには大掛かりな土地の詐欺を行うようになる晄のキャラクターは、人としてあるべきものが欠けている怖さを随所に感じさせるものだ。

 そして、それらの悪事は、晄が生涯を懸けて実行する復讐計画の序章のようなものだと、読み進むにつれて読者は知らされる。

 晄の復讐計画によって私刑執行されていく過程とその対象となる人間たちは、ある意味、読者の想定内であり、彼らと晄との繋がりも容易に予想がつくだろう。が、彼の心の底の光が何であったかが明かされるラストは、本書の帯に銘打たれた「驚愕のラスト」というキャッチコピー通りに、本当に驚かされる。人によっては、「何だこれは」と怒りすら覚える人もいるかも知れない。肩透かしを食らってぽかんとする人もいるだろう。しかし、本来なら、人の心の底で光となるべきものを失っても何も感じないにもかかわらず、多くの人が見過ごすような物を唯一の光として大事に心の底に隠し持ってきた晄の孤独といびつな心に、限りない哀れさも同時に感じるに違いない。

文=ガンガーラ田津美