盲目の文化人類学者が「目の見えない世界」を研究。何が見える?

暮らし

公開日:2018/7/4

『目に見えない世界を歩く』(広瀬浩二郎/平凡社)

 先日、こんな光景を見た。白杖を手に横断歩道を渡ろうとする視覚障がいを抱えた女性。そこへ軽トラが走ってきた。軽トラの運転手は、歩行者を優先することなく横断歩道に突っ込み、危うく交通事故を起こしかけた。女性は何が起きたか分からず、白杖で軽トラのボンネットをトントンと叩き、ようやく状況を理解したのか、足早に去っていった。

 このとき問題だったのは、私も含めて、この光景を見ていた周りの人間だった。軽トラの運転手を非難することも、白杖の女性に声をかけることもなく、ただ見つめ、そして再び歩き出したのだ。「自分はこんなに冷たい人間だったのか」「バリアフリーが当たり前になりつつある社会だが、心のバリアフリーはまだまだ遠い」。そんな危機感を覚え、手に取ったのが『目に見えない世界を歩く』(広瀬浩二郎/平凡社)だ。

 文化人類学者で全盲の広瀬浩二郎さんは、障がい者という立場から「盲人史」を考察し、そして触ることの素晴らしさを伝える「触文化論」を本書で展開している。表紙をめくったときは「視覚障がい者のことを伝えたい」と意気込んでいた私だが、読んで考えを改めた。本当に伝えるべきは「視覚障がい者を見つめる私たち」ではないか。

advertisement

■人やモノに心を通わせる「触文化論」

 広瀬さんが研究を始めたきっかけは、京都大学の大学院に在籍時、卒論を書くため琵琶法師を取り上げたことだった。1990年代の日本にはまだ「盲僧」が何人か存在し、実際に会いに行くと、琵琶法師が奏でる音楽と歌い上げる声に圧倒された。聞き手と語り手が魂を共振させるような、全身に響く表現力が記憶に刻まれたのだ。これが、広瀬さんが文化人類学者として盲人史の研究を始める出発点となった。

 本書では、琵琶法師や死者の霊の言葉を語る「イタコ」など、広瀬さんが盲人史を研究して得た内容とその考察を紹介したり、現在の視覚障がい者の立ち位置や彼らと私たちの関わり方に対して意見を述べたりしている。

 人間は何かを失うと、別の何かで補おうとする本能が備わっている。視覚障がいのある人は視力を失った分、聴覚や触覚などの感覚が研ぎ澄まされる。私たちは日常の情報の大部分を視覚から得ているが、それは惰性的に情報を飲み込んでいるにすぎない。目だけに頼らず、全身を使って情報を取り入れようとすれば、私たちの周りには「感動」があふれている。

 そしてその感動を最も得られるのが「触覚」だ。人やモノに触れることで伝わる感触や温かみ、そして気持ちを広瀬さんは「ふれ愛」と呼び、お互いに心を通わせることを願う。これを社会に広めるため、広瀬さんは展覧会や国立民族学博物館を訪れる人々にその素晴らしさを日々伝えている。

■見えないようで見えている世界

「目が見えない」とは、どんな世界だろうか。その世界を生きる人は、どのようなことを毎日考えて暮らしているのだろうか。私たちは普通に生活していると、彼らと接する機会が少ない。したがってメディアの情報に頼ることになる。結果、イメージが固まってしまうのだ。「頑張っているんだな」「かわいそうだな」という具合に。本書を開くまで私も似たようなイメージを抱いていた。

 だが、目が見えようが見えなかろうが、私たちは同じではないか。目が見えなくて嘆き悲しむ人がいれば、目が見えていても辛い毎日を送っている人もいる。反対に、生きがいに満ちた生活を送る人だっている。みんな同じように喜怒哀楽に囲まれて暮らしているのだ。そこに分け隔てはない。ただ、「分かりやすい苦労」が「視覚障がい者」からうかがえるだけだ。

 広瀬さんは本書でそんなことを伝えたいのかは分からないが、読み進めるほど、そう痛感する私がいた。目で見える情報に縛られていては、大切なことを感じることはできない。人の心に触れることができない。交通事故が起きそうになったあの瞬間、もっと「感覚」を研ぎ澄ませていれば、あの光景は別のものに変わったかもしれない。

 見えているようで見えていない。見えないようで見えている。見える世界に頼り切っている私たちが、見えない世界を生きる人々から学ぶことは多そうだ。

文=いのうえゆきひろ