京都が人の心を惹きつけてやまない理由

暮らし

公開日:2018/7/12

『京都がなぜいちばんなのか』(島田裕巳/筑摩書房)

 京都といえば、国内外を問わず多くの観光客を集める魅力的なスポットだ。数多くの神社仏閣が立ち並び、その独特の雰囲気に魅せられる人も多いだろう。では、そういった京都の魅力は一体何に起因しているのだろうか? 京都の何がこれほどまでに多くの人を集めるのか? その答えを考察したのが『京都がなぜいちばんなのか』(島田裕巳/筑摩書房)である。

 京都は「千年の都」と呼ばれる。京都に都を開いたのは桓武天皇で、延暦13年(西暦794年)のことだ。それから約1000年、明治維新で首都が東京に変わるまでの間、京都は日本の「首都」だった。この変更は、僅か150年前のことである。ただし、東京は明治維新の前、江戸だった頃から江戸幕府が構えられ、日本を代表する街として栄えていたのだから、実際に東京が日本の中心となっている期間は400年ほどといったところだろう。しかし、それでも京都の歴史と比べると倍以上の開きがある。そして、京都と東京を比べると、同じ日本といえども文化の違いが目立つことに気づくだろう。1000年間積み重ねられてきた文化と400年間の文化では、違いが生まれてもおかしくはない。さらに、東京で歴史を感じる機会があるかといえば、思いのほか少ないのではないだろうか。これは、関東大震災や戦災で東京が幾度も作り変えられたことに起因している。一方、京都は1000年前の面影を今尚そこかしこに伝えているのだ。多くの人が京都に惹かれる理由のひとつとして、東京などの都市と比べたときに感じる文化の違いや歴史の違いがまず挙げられるだろう。

 また、京都の神社仏閣をひとつひとつ見て行っても、掘り下げられる内容が深く、それもまた人を惹きつける要素となっている。

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 たとえば、有名な清水寺だが、この清水寺にまつわる言葉に「清水の舞台から飛び降りる」というものがある。この言葉、現代の感覚で言えば物の喩えでしかなく、まさか本当に飛び降りるわけはないと思うに違いない。しかし、清水寺の歴史を辿っていくと、その昔、平安の頃にはどうやら本当に清水の舞台から人が飛び降りていたらしいのだ。なぜ飛び降りたのか、というと、これは平たくいうなら世をはかなんでの投身自殺である。観音菩薩の補陀落浄土へ往生するため、簡単にいうなら死後の幸せな世界へ行くためだ。現代の感覚からいうとクエスチョンマークが乱舞するような行いだが、ここには当時の観音経ひいては法華経への信仰が関わっている。いわゆる不惜身命(修行のためなら体、命さえも惜しまないという決意)を実行したのではないか、とされているのだ。

 また、江戸時代になると、舞台から飛び降りることを「飛び落ち」といい、驚くことにかなり流行していたという。飛び落ちによって命がけの祈願を行い、そこに観音菩薩の加護があれば、命は助かり願いも叶うと信じられていたようだ。ちなみに、当時の清水寺の舞台の下は木が繁っており、土もやわらかかった。そのため、現代人がイメージするほど致死率は高くなかったようだ。事実、飛び降りて無事だった人が居た記録も残っている。この「飛び落ち」は、明治5年に政府が禁止令を出し、その後数が激減した。しかし、清水寺の舞台は当時の姿を今尚とどめている。清水寺の舞台に立ったときは、その昔ここから命がけの祈願をした人達が居たことに思いをはせてみるのもいいかもしれない。

 京都の魅力について、本書では以下のように語っている。

京都は、そこが都になってきたときから変貌を続けてきた。昔からあるものが残されつつ、そのあり方はかなり変化している。その変化は、あまりにもうまく時代の流れに沿っている。そこに、古都としての京都の底力が示されているのである。

 京都がここまで人びとの心を惹きつけてやまない理由には、その歴史や文化を感じさせる景観と共に、古都が持つ時代の変化への寛容さを心地よく感じるからではないだろうか。

文=柚兎