私を呪縛する自己否定はどこで生まれるの? それを解く方法は?

暮らし

2018/9/17

『脇道にそれる 〈正しさ〉を手放すということ』(尹 雄大/春秋社)

 筆者は自己否定感に苛まれるとき、ふと思うことがある。「もし、事故か何かの拍子で記憶を喪失してしまったら、悩みから解放されて今よりも楽に生きられるのではないだろうか?」と。

 自己否定、過去の呪縛、トラウマ、ジンクス、性格のこじれ…。私たちは、自分で思っているよりもはるかに、過去の自分と記憶に縛られて生きているのかもしれない。

仕事、家族、生活…。私たちは様々な場面で固定観念に縛られている。世捨て人になるのも手だが、社会に属しながら常識という名のレールをそっと踏み外すことができたら、何が見えてくるだろう?

 そのスタンスを一貫しながら、唯一無二の「あり方」を探究していく書籍、『脇道にそれる 〈正しさ〉を手放すということ』(尹 雄大/春秋社)を本稿ではご紹介したい。

 政財界人やアスリート、アーティストなど約1000人に取材し、そうした経験とさまざまな武術を稽古した体験をもとに身体論を展開してきた著者。本書はそんな彼が、伝統工芸の職人、二重被爆者、精神障害のある人たちの地域活動拠点「べてるの家」の人々、そして自らの幼少期の体験まで、多くの「生」に着想を得ながら、「あり方」を探っていくものだ。

■「誠実に生きる」とは、修羅場である

 著者が出会ったある木彫り職人は、「見たものを見たままになんでも彫れてしまう」技をもっていたという。しかしそれは彼が追求するもののほんの入り口に過ぎず、彼は「きれいを越えること」を課題としている。

 そんな職人は「誠実に生きなくてはならない」と言ったそう。ただし、これは社会を生きる上で評価される徳目とは無縁の領域のものだ。

「『誠実』を良い言葉として取られると困ります。そうではない。修羅場です。誠実に生きれば経済的にも不利になりますから、この世で生きる上では損するだけでちっとも良くない。しかし、たったひとつ他に変え難い、良いことがあります。それはものの本体が見えてくることです。これは要領よく生きていたのでは、絶対に見えてこない」

 木彫り職人の厚みのある一言一句からは、「作る」ことは、ただただ「生きる」ことと切り離せないのだと思い知らされる。

■自己否定の呪いを解くために

 本書の辿る道筋はゆるやかに繋がりながら、後半では著者の人生経験から「自己否定はどうして生まれるのか」というテーマが掘り下げられる。世捨て人になるのも手ではあるが、社会に属しながら「自分の縛りを解いていく」ためにはどうすればいいのだろうか。

 客観的な態度で自分と向き合うことは、しばしば良いことだと捉えられがちだ。しかしそういう姿勢で自分に臨むことで、「そうありたい私」という理想と、「直視したくない私」という現実の対立を生み出し、ひいては努力が実を結ばない関係性を作ってしまうだけなのではないかと著者は指摘する。

むしろ、「そうありたい私」と「直視したくない私」を分離させれば解決に至ると思い込み、客観的に振る舞いたがる自分に対して、距離を保つべきなのだ。(中略)「自分と向き合わなければいけない」という時の「自分」とは、厄介な自己であり、過去である。煩わしい過去を問題として扱おうとすると、必ずこれまでの所業を数え上げることになる。それが苦痛の再現というストーリーをなぞる力動をもたらすのではないか。

 過去は亡霊のようで実態がない。それなのに、私たちは過去に自分を求めてしまう。なぜか。過去は既知ゆえに、すがれば一時の安心が得られるからだろう。対して未来は何が起こるか分からないから不安だ。しかしそれを可能性の光と呼ぶのだとしたら、そこに向けて歩いていくのが「生きる」ことではないだろうか。

「今を生きている私にできるのは、解決ではなく、過去の自分の成仏を祈ることではないか」という著者の言葉に深い意味を感じる。

 本書全体を読んだ後に、「じゃあ結局何が言いたいの?」などと考えても、その形は明確なストーリーのようには見えてこないかもしれない。ならば何も得られないのかというと、決してそうではない。むしろ本書は、ハッキリとした道筋の「間」の部分を、ふんわりとした感覚の領域で掴ませてくれる。

 その姿勢こそが「脇道にそれる」ということなのではないだろうか。脇道にそれた先には、どんな景色が待っているのだろうかと思わせられる1冊であった。

文=K(稲)