いじめ、非正規、叶わぬ恋――32 歳で命を絶った若き歌人の叫び『滑走路』

社会

公開日:2018/10/15

『歌集 滑走路』(萩原慎一郎/KADOKAWA)

 自分の気持ちや考えたことを歌に乗せて表現する短歌。五・七・五・七・七の5句31音には、歌人の魂とも言うべき思いが込められる。

 萩原慎一郎さんは若くしてこの短歌に魅せられ、猛烈に詠み続けた歌人だ。そして発表したのが『歌集 滑走路』(萩原慎一郎/KADOKAWA)だった。

 今、この歌集に注目が集まり、静かな広がりを見せている。

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■心の悲鳴を短歌に変えて

 萩原さんの短歌を読むと、絶望の淵から希望に手を伸ばす姿を目にすることができる。

朝が来た こんなぼくにもやってきた 太陽を眼に焼きつけながら

 読む人の心に響く力強いエールがある。

今日願い明日も願いあさっても願い未来は変わってゆくさ

 押し寄せる苦難に立ち向かおうとする勇気、今を嘆くだけに終わらない未来に可能性を見出す強さ、感受性豊かな心がつむぐ言葉の数々。どの歌にも渾身のメッセージが込められている。

 これは萩原さんの過去によるものが大きい。

 中学生の頃、所属する野球部の部員たちからあることがきっかけでいじめを受けてしまう。監督から怒鳴られておどおどする萩原さんの様子を数人の部員に見られたのだ。これを機に差別的な言葉を投げられたり、持ち物にいたずらされたり、友達との仲を引き裂かれたり、執拗ないじめが始まる。

 いじめに耐えきれなくなった萩原さんは、やがて野球部を退部。部屋で読書に励むようになった。そして高校2年生の頃、運命的な出会いをする。短歌だ。俵万智さんの短歌を読んで「これなら自分にも書ける」と“勘違い”したそうだ。

 それから32歳になるまでの15年間、萩原さんはずっと短歌を詠み続けた。

今日という日もまた栞 読みさしの人生という書物にすれば

 猛烈に歌を詠み続けた。

もう少し待ってみようか曇天が過ぎ去ってゆく時を信じて

 まるで心の悲鳴を短歌に変えるように。

叩け、叩け、吾がキーボード。放り出せ、悲しみ全部。放り出せ、歌。

 詠むことで切り開く未来を信じて。

思いつくたびに紙片に書きつける言葉よ羽化の直前であれ

 通信制の大学を卒業した後、27歳で非正規の仕事に就いた萩原さん。しかし現実は厳しかった。彼に待っていたのは、またしても苦難だった。

■非正規という受け入れがたき現状を受け入れながら生きているのだ

 多くのメディアが報じているように、非正規の現状は辛く苦しいものがある。

階段をのぼりくだりて一日のあれこれあっと言う間に終わる

 正社員との間にある途方もない壁。差別のような扱いの日々に、萩原さんの短歌が叫ぶ。

コピー用紙補充しながらこのままで終わるわけにはいかぬ人生

 自らの望む仕事ができない悔しさがにじむ。

非正規という受け入れがたき現状を受け入れながら生きているのだ

 恋すら思うようにできない。

作業室にてふたりなり 仕事とは関係のない話がしたい

 重く辛い現実に頭を抱え、苦悩を短歌に変えて詠み続けた。

夜明けとはぼくにとっては残酷だ 朝になったら下っ端だから

 不遇な日々と向き合い、何かを変えるべく、もっと素晴らしい明日を夢見て、歌を詠んだ。

抑圧されたままでいるなよ ぼくたちは三十一文字で鳥になるのだ

 そして転機が訪れる。2017年の春、歌集を出版することになった。タイトルは『滑走路』。萩原さんの短歌を目にしてきた人は皆、この素晴らしいタイトルに首を縦に振った。

 未来に向かって遥か高く飛び立つであろうこの書籍。ここから萩原さんは歌人として本格的な道を歩み始める。

 ……はずだった。

 2017年6月、彼は自らの手で命を絶ってしまう。どれだけ苦しくても、それを言葉に変え歌い続けてきた萩原さん。どのような心境が彼を追い詰めたのかは分からない。

 事実として言えるのは、その半年後に出版された『滑走路』が彼の遺作になったことだ。

■注目され始めた若き歌人の絶唱

 今、命を懸けて詠み続けた萩原さんの短歌が静かに注目され始めている。

非正規の友よ、負けるな ぼくはただ書類の整理ばかりしている

 不遇に泣きながらも魂を込めた言葉の数々が、大勢の人の目にふれ、私たちの胸に届く。

 この歌に共感を寄せる人は多い。

 絶望を希望に変えようとした歌人の絶唱は、彼がこの世を去った今、大空を舞いながら光り輝こうとしている。その希望はきっと同じ苦しみを抱える人々に優しく語りかけるだろう。

癒えることなきその傷が癒えるまで癒えるその日を信じて生きよ

 萩原さんならば、きっとそうしたはずだ。

消しゴムが丸くなるごと苦労してきっと優しくなってゆくのだ

 若き歌人が遺した至極の295首が誰かの心にそっと舞い降りて、共感と希望を授ける。

きみのため用意されたる滑走路きみは翼を手にすればいい

 読む人の心を真っすぐに射抜く短歌が、この歌集にある。

文=いのうえゆきひろ