【死について真剣に考えてみる】どうして「死にたくない」と思うのか? 不死はいいものか?

暮らし

2018/12/8

『DEATH「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義』(シェリー・ケーガン:著、柴田裕之:訳/文響社)

 死はどうあがいても避けられないものだ。生物はいつか必ず死ぬ。それは人間も同じだ。しかし人間が他の生物と違っているのは、やがてくる死を知り、それと向き合うことができるという点だ。本記事で紹介するのはイェール大学で行われた「死」に関する講義をまとめた書籍『DEATH「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義』(シェリー・ケーガン:著、柴田裕之:訳/文響社)である。

 多くの場合、死は嫌われる。創作でも現実でも「死にたくない」という気持ちを原動力に、それこそ死にもの狂いで努力した人の話はたくさんある。また「今すぐ死んでください」と言われればほとんどの人は嫌がるだろう。殺されそうになれば、相手を殺してでも生き延びようとする人も少なくない。ではなぜ、それほどまでに死ぬのが嫌なのだろうか。この心理の裏には、死を「悪いもの」だとする考えがある。では死ぬことの何が悪いのか。死を悪いことだと思う理由は、死ぬ過程で苦しむこと、家族友人と二度と会えないこと、自分という存在がなくなること、人生の可能性を失うことなどが挙げられるだろう。本書ではこの中のひとつひとつを丁寧に解説しているが、ここでは剥奪説について紹介しよう。

 剥奪説とは、簡単に言えば死が悪いのは人生の可能性を奪われるためである、とする説だ。死ぬことで人は存在しなくなり、人生の喜びや楽しみを何も味わえなくなってしまう。これこそが死を厭う理由だと本書では結論づけられている。辛いことがあった人に対する「生きていれば必ずいいことがある」という励ましを聞くことがあるが、これは剥奪説を前提にした言葉だと言えるだろう。この励ましの中には「死んでしまったらいいこともなくなってしまうぞ」という意味もこもっているのだ。未来にいいことはあるかもしれないし、ないかもしれない。ただ、可能性だけは確実にある。死はそれすらも塗りつぶしてしまうから「悪いもの」だとされるのである。

 死を考えるとき、往々にして話題に上るのが不死だ。仮に不死の力が手に入るとしたら、どちらを選ぶ人が多いのだろうか。死は人間のあらゆる可能性を塗りつぶす。それならば不死の力を手に入れれば、それは無限の可能性を手に入れたも同然だ。だとすれば不死の力を手に入れたいと思う人もいるかもしれない。しかし、現実的に考えたとき、おそらく多くの人は不死を選ばないのではないだろうか。その理由はいくらでもある。不死だからといって健康でいられるとは限らないし、経済的に不自由しない生活をずっと送れる保証もない。もしも不健康な体で経済的にも逼迫した状況で永遠に生きなければならないとしたら、それはもう生き地獄以外の何物でもないだろう。つまり理想の状態の不死には、健康や経済的な豊かさといった付随的要素が必要不可欠なのだ。

 さらにそういった物理的要素が仮に満たされていたとしても、今度は精神的な退屈という問題が降りかかってくる。結局、不死が人間にとって最善かといえば決してそうではないという結論に至らざるをえない。しかしやはり死ぬのは怖い。人間にはそんなジレンマがある。本書曰く、本当に理想的なのは不死でもただ死ぬことでもなく、自分が満足した段階で安らかに逝けることなのだそうだ。死が悪いものである理由は、未来の可能性がなくなるから、ならその可能性を本人が「いらない」と言えるのであれば、死を厭う理由はなくなる。死は不死という悪夢から人間を解放する救いと言うこともできるだろう。

 最後に自分が死ぬタイミングについて少し考えてみよう。もしも自分が死ぬ時間と場所が分かるとしたら、それを知りたいだろうか。知りたくないだろうか。きっと自分の寿命を教えてほしいという人もいれば、絶対に教えないでくれという人もいるに違いない。こういう問題に答えはないものだが、現実にこういった寿命を突きつけられることがある。病気の余命宣告である。もしも「あなたの寿命はあと1年です」と言われたとき、どうするか。たとえはるか遠くにあるように感じていても、死はすぐ身近に常にある。「満足のいく死」を考えることは、自分にとって充実した生き方を決めることでもあるのだ。

文=柚兎